好きか・嫌いか・どうでもいいか
―― 館長である唐澤さんについても聞かせてください。プロフィールを見ると唐澤さんは愛知の生まれだと書かれています。
どのような経緯で、今の国立工芸館の館長という立場になったのか教えてもらえませんか?
唐澤:小学生のころから図画工作が大好きで時間を忘れるくらい没頭してきました。勉強するよりは絵を描く時間の方が楽しかった、そんな少年時代を過ごしてきました。
自分でも絵を描く美術専門の先生が中学校に居て、今思えばその先生にのせられた、それに尽きると思います。
―― 美術の授業で褒められたという話ですか?
唐澤:はい。時間を忘れて没頭し制作した作品を褒められる、そんな楽しさを先生から教わったと思います。
高校も美術系の科に進みました。10クラスあるうち9クラスが普通科で1クラスが美術科といった高校です。
―― 美術の方へ早々に進路を取ったのですね。
唐澤:はい。大学も愛知県立芸術大学で彫刻を学びました。
―― 具体的にはどのような彫刻ですか?
唐澤:浮気症だったので木を彫ったり、石を彫ったり、溶接をやったり、鋳造をやったり、乾漆をやったり、なんでもやりました。
―― 最初はつくる側だったのですね。どうしてその唐澤さんが見る側というか、作品を収集・展示・解説・批評する側に回ったのでしょうか?
唐澤:大学の学部を出た後、今で言う大学院の博士課程にも進んで、非常勤講師もやって、8年半くらい大学に在籍していました。
彫刻を続けるためには場所と道具が必要です。石を彫ろうと思うときちんとした環境がなければ創作活動を続けられません。
それでずっと大学に居たいと思っていたのですが「愛知県陶磁美術館が現代陶芸の学芸員を探している」と担当の教授からある日言われました。
この言葉を言われた時「もう大学に残れないぞ」と宣告された気になりました。
表現者としてここまでだと教授が言いたかったのか、自立して活動しろと言いたかったのか今となっては分かりませんが。
―― 就職を機に制作をやめたという話でしょうか?
唐澤:いえ。愛知県陶磁美術館(当時は愛知県陶磁資料館)の学芸員として採用された後もグループ展で活動もしていましたし公募展にも出していました。
しかし、学芸員として展覧会を担当するようになり作家さんの仕事場を周り始めると、「こんな風につくりたい」「こんな風につくれたらいいな」と自分が思う形や質感がもう目の前に存在しているわけです。自分の力量のなさを思い知らされました。
同時に、現前する作品を多くの人に紹介する方が自分の歩んできた人生を世の中に還元できる、世の中のプラスになると思うようにもなりました。
それで制作をやめて、自分が見出した・見つけ出したものを世に広める仕事にシフトしていきました。
―― そんなにすんなりやめられますか?
唐澤:もちろん、すんなりは無理です。だんだんです。
―― そして、ここにたどり着いたと。
唐澤:そうですね。愛知の美術館に11年半居て、その後に東京の工芸館に来たので。
しかし、結果としてですが、自分で手を動かして作品をつくってきた経験がすごく今は役立っています。
素材とか技法、技術の話とかを作家さんと話していても、本当のとんがった部分は分からないですけれど、なんとなく分かります。
机上だけではなく創作をしっかり体験してきた人生は今になって見れば本当にラッキーだったなと思います。
色とか形にしか最初は反応できない
国立工芸館のエントランス正面の中庭にある金子潤さんの陶芸作品
―― その愛知県陶磁美術館時代だと思うのですが、「工芸は好きか、嫌いか、どうでもいいか、この3つの基準で楽しむといい」と唐澤さんはある展示会で発言しています。
唐澤:ああ、はい。よくご存じですね。
―― 北陸3県の工芸を巡るマイクロツーリズム(小旅行)が今回の取材のテーマです。
北陸各地の工芸の産地に訪れていざ工芸と向き合った時、どのように楽しめばいいのか分からないという問題があると思います。
そこで、唐澤さんの言葉がとても参考になると思うのです。言葉の真意をあらためて教えてもらえませんか?
唐澤:解説を聞きながら(読みながら)作品なり工芸品なりを毎回見たり触ったりできるわけではありません。
何も説明がない、お墨付きがない状態では、自分の価値判断で評価するしかありません。
そこで「好きか」「嫌いか」「どうでもいいか」、自分がどのように反応したかを大切にしてほしいと思います。
ただ「好きか」「嫌いか」「どうでもいいか」だけで終わらせてしまうと単なる自分の感情になってしまいます。
好きだと思ったらなぜ自分が好きなのか、嫌いだと思ったらなぜこの作品が自分は駄目なのか、理由を考えてほしいです。
―― 「嫌い」と「どうでもいい」はどう違うのですか?
唐澤:どうでもいいは何も感じない状態です。何かを語ってくださいと言われても何も声が出ない状態と言いますか。
―― 嫌われるより無関心でいられる方がつらいみたいな話を恋愛でも聞きますが、そんな状態ですね。
「どうでもいい」場合はどうするのですか? どうでもいいからスルーすればいいのでしょうか?
唐澤:「どうでもいい」が実は一番大事で、意識の中でどうでも良かった作品をとっておいてください。
「あの時何も感じなかった」と記憶しておきます。
その蓄積を持ったまま工芸を見続けていると何かのきっかけで、そのどうでも良かったものが好きか嫌いかに動いてきます。
どうでもいい工芸が好きか嫌いかに入ってきたらまたその理由を考える。
色とか形にしか最初は反応ができなかった自分の見方が、その繰り返しで広がっていると実感できるはずです。
―― 唐澤さんもその見方を続けてきたのですか?
唐澤:自分も実際にそうやってきました。
―― いつからやってきたのでしょうか?
唐澤:大学で彫刻をやっている時、のみで手をけがして半年ほど作品をつくれなかった時期がありました。
大学の図書館で彫刻の作品集を片っ端から借りて、好きなもの・嫌いなものを記憶し、今度はこれをやってみようと積み重ねてきました。
―― その文脈で考えると、工芸を楽しむにあたって予習はなくてもいいと解釈できそうです。この特集の仮タイトルに「予習」と入れているのですが。
唐澤:予習は必要ないと思います。見た時の自分に正直になってください。
―― 大衆的な具体例に何度も引き寄せて申し訳ないのですが「好きか」「嫌いか」「どうでもいいか」の話は「カレーライスが好き」で終わらせるのではなく「なんで自分はカレーライスが好きなんだろう?」と突き詰めて考える、そういう話ですよね。
唐澤:そのとおりです。
―― 作家の工芸の場合、展覧会に行けばいろいろと解説が書いてあります。その場合も、解説文ではなく物(作品)をまず見た方がいいのでしょうか?
唐澤:はい、まずは物を見たいですね。ただ、作家の工芸だと、物を見る前でも見た後でもいいですが、タイトル(名称)には注目した方がいいかもしれません。
―― どうしてでしょうか?
唐澤:素材だったり技法だったりが名称には書かれているからです。
例えば、茶わんの「わん」の字も石偏の「碗」と木偏の「椀」があります。
その漢字の違いを見ただけで、前者の「お碗」は焼き物の作家がつくったおわんだろう、後者の「お椀」は漆の作家がつくったおわんだろうと見立てができるようになります。
越前漆器のおわん(椀)。写真提供:福井県観光連盟
―― 普通は木に漆を塗るので、タイトルも木偏の「お椀」になるという意味でしょうか?
唐澤:はい。陶芸になると「盌(わん)」という字も出てきます。筒のように立ち上がったお皿を「盌」と呼ぶからです。
磁器5も一緒で「磁」もあれば「瓷(じ)」もあります。
石偏の「磁」と書かれている作品はボディーが恐らく磁器です。「瓷(じ)」の場合はボディが恐らく陶器です。
―― ちょっと言葉が難しくなってきました。用語の意味を整理すると、焼き固めてガラス化した純白透明の焼き物が磁器です。
十分に焼き締まらず吸水性のある不透明な焼き物が一方で陶器です。そのため、光たくのあるガラス質のうわぐすりを用いて水分の吸収を防ぎます。
唐澤:例えば、白磁6をつくる作家が自分の作品の名称に「白磁」ではなく「白瓷」と書いていたとします。
「どうしてですか?」とその作家に聞けば「自分の場合は器をガラス化するまで焼き固めないで、少し手前で焼きを止めて柔らかさや温かみを出している。だから、白磁ではなく白瓷と表現します」などと答えが返ってくるはずです。
―― 「うわぐすりをかけたきめの細かい焼き物」が「瓷」だと漢字辞典に書かれています。要するに陶器ですよね。白「磁」ではなく白「瓷」と表現すると、言葉の響きとしては陶器に近く感じられるとの意味ですね。
唐澤:「好き」「嫌い」「どうでもいい」の理由を突き詰めていくと、そのうち学びも深まってこうした名称にも反応できる自分が育っていきます。
自分の中に育ちを実感できれば工芸の鑑賞がより楽しくなります。また、次の作品・次の産地に足を運んでみようという気にもなると思います。
―― 何の世界でも一緒ですが、自分の中に成長が感じられると次の段階へ行く原動力になりますものね。
(副編集長のコメント:なんとなくハードルの高そうな工芸の楽しみ方。三択でいいならぐっと親しみやすくなります。
とはいえ物は使ってこそ。工芸を使う楽しみについて次は話が進みます。)
6純白の磁器。
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