富山県立近代美術館事件編。弁護士Iからの「謎解き」挑戦状

2021.08.31

第4回

敵対的聴衆の法理

出題

ここで出題となる。

 

読者の皆さんが仮に、美術作家の大浦信行氏、あるいは「天皇コラージュ」を知る自由が奪われたと訴える富山県民らの代理人弁護士となった場合、どのように主張するだろうか。

 

提訴された富山県側の立場に置かれたとしたら逆に、どのように反論するだろうか。

 

考えるべき問題点は大きく分けて2つある。

 

芸術家である大浦氏の作品「天皇コラージュ」を発表する権利問題と、作品を観覧する住民らの権利問題である。

「請求権」ではなく「知る自由」

憲法21条1項における「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を富山県によって制限されたと大浦氏の側はまず主張した。

 

図録を観覧される権利、美術作家としての名誉感情が傷つけられたとの訴えもあったが最大の主張は、表現の自由の制限に対する訴えである。

 

住民らの主張はまた別で、富山県が保有する情報に関係した、いわゆる「知る権利」に基づく。

 

最初から非公開だった作品を見せろと行動(作為)を請求しているのではない。美術館がもともと保有し公開していた作品をもともとの扱い(保有・公開のまま)にしてほしいと不作為を求めている。

 

「何かをしろ」という「請求権」ではなく、もともと美術館が保有し公開していた作品なのだから「もとの状態に戻せ(余計なことはするな)」と不作為を求めているのだ。

 

言い方を換えると富山県民は、作品の内容を「知る自由」を求めている。要するに、自由権の問題である。

 

もちろん「知る自由」は、憲法21条の表現の自由を裏から見た権利として一般的に国民に保障されている。

明らかな差し迫った危険

とはいえ物事には異なる見方が決まってある。大浦氏の側が主張した「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」は常に認められるわけではない。

 

大阪府泉佐野市の公民館問題を〈HOKUROKU〉読者なら覚えているかもしれない。

 

本来なら集会をするために存在する公民館を「集会で利用したい」と申請した市民団体の希望が泉佐野市の判断で認められなかった。

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その理由は、申請者である市民団体の集会利用を認めると「人の生命、身体又は財産」が侵害される「明らかな差し迫った危険」が想定されたからである。

 

泉佐野市の公民館利用を申請した市民団体は、関西新空港に関する決起集会を予定していた。しかし、その市民団体は、過去の集会において対立抗争を繰り返してきた客観的事実があった。そこで、泉佐野市の考えを裁判所も認めた。

 

富山県立近代美術館の館内の様子。撮影:大坪史弥

 

しかし、富山県立近代美術館と泉佐野市の公民館の問題は状況が違う。

 

近代美術館の騒動の場合、反対派Bによる図録の破損、反対派Cによる県知事の暴行未遂が富山で起きた。そこでは確かに「財産」や「人の生命、身体」の侵害が成立している。

 

とはいえ「天皇コラージュ」を制作・展示した美術作家の大浦氏本人が「財産」や「人の生命、身体」の侵害を起こしたわけではない。

 

あくまでも、聴衆(部外者)である反対派が引き起した。聴衆の行動を理由に展示を不許可とする判断は筋違いにも思える。

 

もっと身近な例で考えてみよう。

 

サッカーチームの関係者が親善試合を開催したいと公立の競技場に利用を求めたとする。

 

そのサッカーチームが、過去の試合時に「財産」や「人の生命、身体」を侵害するような行動を繰り返している客観的な事実があるのなら、競技場側は申請を拒否できる。

 

しかし、その手の問題行動をチーム自身は過去に起こしていないのに、親善試合開催を許すと「財産」や「人の生命、身体」を侵害するような行為を聴衆(観客などの部外者)が起こすと予想されるからといって、競技場の側は申請を断れるのかという話だ。

 

国家の使命は、暴力の黙認ではなく暴力からの保護である。

 

公共の安全を明らかに脅かす、差し迫った具体的・客観的な危険があるとしても、当人ではなく「敵対的な聴衆」による妨害で発生する危険ならば警察が防止すべきである。公の施設は利用を拒否してはならない。

 

「天皇コラージュ」、および図録を非公開にして、売却・焼却した近代美術館の処分は、敵対的聴衆の法理に従うと、憲法21条1項に違反するようにも見える。

表現の自由を制約していない

 

原告(提訴する側)の主張に対して被告(提訴される側)の富山県は次のように反論した。

 

憲法 21 条1項の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」をそもそも富山県は制限していない。美術作家・大浦氏らの主張はいずれも、美術館での作品公開・観覧を求める「請求権」である、とした。

 

憲法 21 条1項ではもちろん、芸術家が作品を製作・発表し、他人に鑑賞してもらう権利を保障している。しかし、国や公共団体に対し芸術家が、自己の作品の購入・展示を求める権利までは保障していない。

 

〈遠近を抱えて〉の連作版画は正当な対価で美術館側が購入している。いわば、美術館所有の作品(自分たちの作品)の館内展示を自分たちの意思で止めると言っているだけで「作品をつくるな」「世の中に一切公開するな」とまで美術館側は大浦氏に求めていない。

 

自分たちの所有する作品の展示方法をどうするかは美術館の自由であるとの主張である。

 

この反論も一理あるように受け取れるはずだ。読者の皆さんはどう思うだろうか?

 

どちらの言い分が裁判で認められて勝ったのか。次回の解答編を確かめる前に一度考えてもらいたい。

 

編集長のコメント:某国立大学の法科大学院における憲法訴訟の講義で非常勤講師を務める著者の伊藤建が生徒に配布した資料を見せてもらいました。

 

富山県立近代美術館事件の概要が冒頭に提示され、どのような形で裁判が展開・決着するかを生徒に予想させる内容でした。HOKUROKUの連載と表現の方法こそ違うものの発想・構成は一緒でした。

 

法律家を育成する法科大学院ではさまざまな事件を講義の中で取り上げ、その事件がどう裁かれたのか、日常的に考える訓練を続けている様子です。皆さんもこの機会にじっくり考えてみてください。)

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

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