富山県立近代美術館事件編。弁護士Iからの「謎解き」挑戦状

2021.09.01

第5回

「天皇コラージュ」事件をめぐる逆転敗訴

富山県立近代美術館事件の解答

富山県立近代美術館事件、あるいは天皇コラージュ事件訴訟の第1審は1998年(平成 10 年)12月16 日に富山地方裁判所で行われた。

 

話を分かりやすくするために、2つの論点を繰り返し整理する。

 

「天皇コラージュ」の非公開措置や売却、図録の焼却により、自らの思想・表現を伝達する自由が奪われたと訴える大浦氏の国家賠償請求が1つ。

 

2つ目として、美術館の展示や図録を通じ「天皇コラージュ」を観る権利、いわゆる知る権利を奪われたとする富山県民ら34名の訴えがある。

 

結論から明かす。

 

 

美術作家・大浦氏による請求について、富山地方裁判所は認容しなかった。つまり大浦氏は負けた。

 

そもそも表現の自由とは、芸術家が自分の作品をつくって発表する活動を、公権力によって妨げられない自由である。展覧会での展示・美術館による購入などを求める力までは持っていないと裁判官は判断した。

 

大浦氏が求めた他の訴え、具体的には図録を観覧される権利、美術作家としての名誉感情が傷つけられたとの訴えも退けられた。

 

しかし一方で、富山県民34名からの請求については、富山地方裁判所は一部認容した。

 

特別観覧制度が条例の中にある点に富山地裁は着目した。特別観覧制度とは、館長の許可を条件にすれば、一般展示していない作品を熟覧・撮影・模写できる制度である。

 

近代美術館に特別観覧制度があるとすれば、作品を知る権利が富山県民には保障されている。非公開は知る権利の侵害だと判断したのである。

 

「美術館で作品及び図録が公開されることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避、防止することの必要性が優越する」

 

「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、客観的な事実に照らして、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見される」

 

場合についてのみ美術館の作品を非公開にする措置が許されると裁判官は判断した。

 

天皇コラージュ訴訟事件の場合は、危険を回避する方法があると考えられた。非公開措置を裁判官は違法と認め、県民らの慰謝料請求を認容したのだ。

たぶんトラブルは起きる

富山県立近代美術館の屋上。撮影:大坪史弥

 

富山県民34名の請求については一部認容されたが、原告(訴える側)双方は直ちに控訴した。

 

第1審の判決内容を不服とする場合に、その取り消しと変更を上級裁判所に求める訴訟を控訴と呼ぶ

 

2000年(平成12年)2月16日に控訴を受け、名古屋高裁金沢支部で第2審の判決が下される。

 

結論から言えば、美術作家・大浦氏の訴えは第1審と同じ理由で退けられた。

 

さらに、県民らの訴えについても第2審では逆転敗訴となった。第1審で一部認められた主張も、第2審では認められなくなってしまったのだ。

 

逆転敗訴の理由を判決文を中心に組み立てると次のようになる。

 

「美術館という施設の特質からして、利用者が美術作品を鑑賞するにふさわしい平穏で静寂な館内環境を提供・保持する」

 

「美術作品自体を良好な状態に保持する」

 

といった活動が美術館の管理者に求められる本来の役割である。

 

「県立美術館の管理運営上の支障を生じる蓋然性が客観的に認められる」

 

場合には、美術品の特別観覧・図録の閲覧を拒否しても、地方自治法244条2項の「正当な理由」にあたるため、違法性はないと判断されたのだ。

 

 

蓋然(がいぜん)性とは、トラブルの起きる確実性の度合いがそれなりに高い状態を言う。

 

小説家・夏目漱石の有名なたとえ話で「私がここで逆立ちをする可能性(possibility)はあるが、蓋然性(probability)はない」との言葉がある。

 

平たく言えば、「作品を展示し続ければ、かなりの確率でトラブルが起きるよね」と客観的に見て考えられるため、「天皇コーラジュ」と図録の観覧を拒否した美術館の判断は正当だと裁判官は判断したのだ。

「美術館の自治」

 

大浦氏らは最高裁に上告した。ご存じのとおり日本には三審制がある。

 

第1審の判決に対する不服を上級裁判所に申し立てる行為を控訴と呼び、第2審の判決に対する不服を終審の裁判所に申し立てる行為を上告と言う。

 

しかし、2000年(平成12年)10月に最高裁判所も内容に踏み込まない「三行半」の決定で大浦氏らの訴えを退けた。

 

二審判決が確定した。富山県側の全面勝利である。

 

この一連の判決をどう思うだろうか? 

 

大浦氏と住民とを敗訴させた判決は「おかしい」と私は考えている。

 

この理屈を許せば、「常軌を逸した不当な」街宣活動で美術館所蔵の作品展示の中止を迫るだけで、表現の自由は暴力に負けてしまう。

 

そもそも美術館は公民館と同じように、私たちが芸術に触れるための「公的な場」「パブリック・フォーラム」である。

 

政治的な意向とは別で、集会場や公園と同じように、さまざまな知見に触れ合える場所であるべきだ。

 

冒頭でも述べたとおり、学問や教育は科学的根拠や専門家の判断に委ねるべき領域である。政治が口出しするべき分野ではない。

 

政治的に「正しい」考えは、必ずしも科学的に「正しい」わけではない。専門家集団の「正しい」とも異なる。

 

新型コロナウイルス感染症のリスクについて、専門家の意見と政府の判断が異なる状況を見ても明らかであろう。

 

 

さらに言えば、専門家による専門性の放棄が最も問題だと私は思う。

 

専門家集団であるはずの教育委員会や美術品選定委員会が政治的な圧力や暴力に今回の事件では屈っしてしまった。

 

天皇コラージュの展示を「社会的な現象を一定のパターンにとらわれることなく、作者の個性が高く表現された作品である」という理由で一度選考した以上、たとえ民意と反していても、政治的な圧力が掛かっても、暴力によって抵抗されても、作品の価値を信じて初志貫徹すべきではなかったのだろうか。

 

反対派の「常軌を逸した不当な行動」をきっかけに作品の非公開を安易に許せば美術館の自主性も失われる。

 

まさに、美術館の「自殺行為」ではないか。選定委員会という専門家は何のために存在しているのか。

 

専門家がもし専門性を放棄したとしても、最後のとりでとして裁判所が芸術家を救済する道も残さなければならない。

 

例えば「大学の自治」のように「美術館の自治」を憲法上認める余地もあるはずだ。

 

憲法23条で保障する学問の自由と芸術の自由の共通性が現に法律家の間でも指摘されている。

 

あるいは「社会教育のための機関」として美術館の事業を「教育」と認めるならば、不快に思った県議会議員による質疑応答の追及は「(学問・教育の)不当な支配」に当たるのではないか。

 

私たち法律家に課せられる役割は、裁判所が採用し得る理屈を考える作業だと痛感する。

 

 

もちろん一方で「美術館の自治」を裁判所が認めて専門家の判断を尊重しすぎれば、歯止めがかからなくなる心配もある。

 

東京五輪のエンブレムをめぐる騒動のように、自分たちのお友達の芸術家だけを専門家が優遇したと仮定してみよう。

 

政治介入が許されず、専門家の判断を裁判所も尊重するとなれば、どのように私たちは歯止めをかければよいのだろうか。

 

旧富山県立近代美術館(跡地ではなく建物は現存)のある城南公園には腰掛ける場所もたくさんある。

 

一度訪れて腰を下ろし建物を眺めながら「天皇コラージュ訴訟事件」についてあらためて現地で考えてみてはどうか。

 

普段は素通りするだけの見慣れた景色に今までとは異なる奥行きが感じられるに違いない。

 

編集長のコメント:芸術家ではありませんが、私も文筆家の端くれです。

 

自分の書いた寄稿文がどこかの媒体で発表され、その発表が反対派を不快にさせたために「常軌を逸した不当な行動」が起きたと考えてみます。

 

寄稿文を掲載した媒体が掲載を取りやめたとすれば「どうぞ、どうぞ」と私としては非公開をあっさり認めてしまう気がします。

 

納得のいかない思いは確かにあるかもしれません。しかし、寄稿先の媒体とその関係者に危害が及ぶと考えれば「常軌を逸した不当な行動」による圧力に屈して非公開を受け入れてしまう気がします。

 

美術作家の大浦信行さんは一方で、最高裁判所に上告するまで表現者として不服を訴え続けました。

 

さまざまな誹謗(ひぼう)中傷と困難がその過程にはあったと思います。

 

しかし、表現に対する強い思いとファイティングポーズを見せ続けたわけで、大浦さんとの仕事に対する覚悟の違いを今回の「法の謎解き」で私としては痛感させられてしまいました。

 

大浦さんほどではないにせよ、ささやかでも何かを表現する側の人間も、学ぶべき部分が少なくない事件だと個人的に感じます。)

 

文:伊藤建

写真:坂本正敬・大坪史弥

編集:坂本正敬・大坪史弥

編集協力:明石博之

物事や事象が実現するか否かの度合い。
普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。

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