表現の場(パブリック・フォーラム)の目的
事の経緯
市庁舎前広場で集会ができないと知った金沢市民Xらは、いしかわ四高記念公園(旧・中央公園)で集会を行う方向に転換した。
「集会が行えたならば問題ないじゃないか」と外野から見れば思うかもしれない。しかし、市庁舎前広場をXらが希望した背景には理由があった。
香林坊の交差点。この交差点を多くの車が曲がり、百万石通りに入っていく。撮影:坂本正敬
人と車の行き来が多い百万石通りから見ると、いしかわ四高記念公園は〈四高記念文化交流館〉の裏手に位置している。一般の歩行者やドライバーに対して見えづらい場所にある。
現在の写真。裁判で問題になった「広場」は2016年(平成28年)に行われた整備事業の前、2014年(平成26年)の出来事だが改修前後で「広場」の姿はそこまで大きく変わっていない
市庁舎前広場は一方で、一般の歩行者やドライバーからでも障害物がないため見通しがいい。
市庁舎前広場であれば自衛隊の市中パレードの会場である〈石川県政記念 しいのき迎賓館〉にも近い。
さらに、細かい話を言えば、いしかわ四高記念公園で集会を開く場合、市庁舎前広場の集会利用で発生しない1,460円の利用料も必要になる。
金沢市民Xらからすれば「集会が行えたなら問題ない」では済まされない話だった。
「政治的な行為」ってなんだ?
金沢市民Xらの市中パレード中止を訴える集会だけが「政治的な行為」としてなぜ許されなかったのだろうか。
裁判でも後に争点になるが、そもそも市庁舎前広場は市民のための空間なのか、あるいは、金沢市が所有するただの敷地の一部なのか。
市庁舎前広場が「みんなのもの」「金沢市民のもの」であれば市民Xらは「みんなの一人」として自由に使えるはずだ。
一方で、市庁舎前広場が金沢市の所有地であり、ただの市役所庁舎の敷地の一部とするならば、使わせるかどうかは金沢市が自由に判断できるはずだ。
普通に考えれば市庁舎前広場は金沢市役所の敷地の一部なので、金沢市民のための空間=「みんなのもの」という発想は単なる建前・理想論にも思えるかもしれない。
しかし、当の金沢市自体も1983年(昭和58年)に「広場管理要綱」を定め、(宗教的または政治的な行為は駄目と補足するものの)「庁舎前広場は、本市の事務または事業の執行に支障のない範囲内で、原則として、午前8時から午後9時までの間、市民の利用に供させる」と書いていた。
2011年(平成23年)にはルールも確かに変わり、「広場」の一般利用を制限するルールも新たにつくられた。
昭和時代から続く古い規則を廃止し「金沢市庁舎等管理規則」を新たに制定して「特別な理由があり、かつ、庁舎等の管理上特に支障がないと認めるときは、当該行為を許可する」とした。
要するに、市民の利用は「特権だよ」「かなり特別だよ」とあらためて制限が加えられていた。
しかし同時に「広場を使わせる」と定めた「広場管理要綱」は残っていた。宗教的または政治的な行為は除くとしながらも原則として広場の使用は認められていたのだ。
金沢市独自の規則を上回る法律も見てみたい。そもそも市の規則とは法律に基づき、市長が法令に反しない範囲で、自らの権限に属する事務に関して定めたルールである。しかし、規則が従うべき法律においては、理想論や建前にも聞こえる市民の権利が保障されているのだ。
地方自治法244条2には公の施設の利用について条文がある。金沢市のような普通地方公共団体は、
「正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない」
「住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない」
と法律で定められている。
金沢市のような地方公共団体が正当な理由なく住民の施設利用を拒否できるようになれば社会の居心地はきっと悪くなる。
例えば「あなたは気に入らないから」とか「市に逆らっているから」といった理由で、公民館や公園、図書館などの使用を拒む権利を市は持ち始める。
都道府県や市町村が形の上では所有しているとしても、公的な(パブリックな)空間は実体として「みんなのもの」と法律に書かれているのだ。
正当な理由がない限り自治体は利用を拒否できない。利用に当たって誰かを差別してはならないと考えられている。
憲法に違反すれば法律すら無効
とはいえ、以上の法律を踏まえても「仕方ないのではないか」と考える人も少なくないはずだ。
ルールとして「政治的な行為」は駄目と金沢市が規則で定めているのだから、市庁舎前広場の利用可否を決める権利は当然金沢市にあるという考えだ。
もちろん、それも解釈の1つに違いない。それならば今度は法律ではなく、国を運営する上で「最高」の効力を持つ憲法を見てもらいたい。
憲法98条1項を読むと、
「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」
と書いてある。つまり、憲法に違反すれば法律すら無効になる。市の定めた規則については言うまでもない。
憲法21条1項には「集会……の自由は、これを保障する。」と書いてある。
市庁舎前広場で市中パレードの中止を訴える集会ももちろん集会だ。
集会の自由が憲法で保障されている以上「市に反対する意見は駄目」と金沢市が仮に規則で決めても、憲法が認める自由の前には効力を失うのではないか。
もちろん、憲法が保障する「集会の自由」にも限界はある。例えば、集会をしたいからといって市役所の職員が使う会議室の利用は当然の解釈として求められない。
ただ、集会や表現にはリアルの「出会い」の場が不可欠だ。
SNS(会員制交流サイト)・ウェブサイトなど、インターネット上で今の時代は自由に人が集まって表現もできる。
しかし、インターネットと現実の世界は違う。道路や広場のような公共の場所であれば、インターネット上では生まれない出会い(出合い)の可能性が大きくなる。
町内会のバーベキュー・お祭りのためにも道路は使われている。インターネット上では掲載できないアーティストやパフォーマーをまちの広場では見掛ける。
路上や広場の祭りやストリートパフォーマンスを偶然目にして思わず足を止めた瞬間が皆さんにもあるのではないか。
もちろん、デモ行進・ビラ配り・街頭演説など政治的な表現活動にも道路や広場は使われている。
1954年(昭和29年)の最高裁判例のころから、デモ行進による表現の自由が道路では認められている。
アメリカ合衆国でも道路・公園・広場などは歴史的に表現の場として使われてきた。
このような伝統的な表現の場(パブリック・フォーラム)では、通行だとか市民の憩いという本来の目的は表現活動に配慮せざるを得ないとすら考えられている。
道路や広場で集会や表現活動ができなくなれば人はどこで集会・表現すればいいのだろうか。
(編集長のコメント:自衛隊だとか市中パレード中止だとかのキーワードを見て「対岸」の話題に感じてしまう読者も居るかもしれません。
ただ、内容が何であれ、集会すら自由に開けない社会の息苦しさを想像してみてください。居心地が悪い社会になりそうですよね。
集会の自由が憲法で認められている社会であってもなお、集会の利用に金沢市が不許可を出した理由も何かあるはずです。
その辺りにも公平に思いを巡らせながら第3回「出題」へと読み進めてみてください。)
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