HOKUROKUも創刊から2年。運営からの「ありがとう」
vol. 01
「趣味じゃない」と立ち止まる人を誘い出す by 坂本(編集長)
目次ページに引き続き〈HOKUROKU〉編集長の私・坂本からコメントを。
HOKUROKUを運営し始めて1年ほど経ったころ、編集部内で「HOKUROKUとはどんなメディアか?」みたいな議論がにぎわった時期がありました。
暗黙の了解が編集部内で増えたからか、最近は語られなくなりましたが、編集長としての立場は「終わらない日常を北陸で終わらせる」がミッションなのかなと思っています。
平たい言葉で言えば「代り映えのしない北陸の日常に非日常の瞬間を取り戻す」でしょうか。
もっと平たく言えば「退屈な北陸の日常にドキドキとワクワクを」だと思います。
自分たちの興味関心だけに暮らしが「閉ざされて」いく
もちろん、退屈だと感じてない人もいっぱい居るはずですし、個人差・地域差が北陸の地域内にも見られるはずです。そもそも論として「日常が退屈」は北陸だけの話でもありません。
退屈さが生まれる理由の1つとして、地域社会で暮らす人同士のきずなが弱まったからだと指摘する社会学者も居ます。
例えば、新しい住宅街に家を構える人が北陸でも多いです。各県内の公立小学校のクラス数や人数を見れば、その傾向が見て取れます。
新興住宅街ではなく、歴史の豊かな地域に暮らす人でも、地域住人の連帯から意図して距離を構える若い世代も増えたと耳にします。
しかし、各種の組合活動に参加しない・地域の祭りに主催者として参加しない若い世代や、団員が減っている消防団の話も各種メディアが報じています。
地域とのつながりが薄れれば、近所の祭礼や催し、集会などとも疎遠になります。
年齢や趣味や立場を超えた人付き合いも自然に減って、良くも悪くも自分たちの興味関心だけに暮らしが「閉ざされて」いきます。
もちろん、それはそれで気ままで楽しい毎日です。
ですが、自分たちと無関係に見える世界に「好みじゃない」と扉を閉ざし続けていれば、一見好きに生きている気になれても、そのうち暮らしはマンネリ化していきます。
自分の意思で選んだ行動の結果は、最初から着地点が予想できるからですね。
例えば昔なら、いや応なしに参加させられた地域の祭礼だったり周期儀礼だったりが、このマンネリを打破してきた側面があると、社会学の分野では言われているみたいです。
「趣味じゃない」「柄じゃないんだよ」と言いながらも地域の獅子舞や曳山に動員され、地域の人たちと団子状態で体を動かすうちに、自分の中に知らない感情が生まれたりするわけです。
HOKUROKUが「祭り」を仕掛けられたらすてき
別に、HOKUROKUが直接的に祭りや地域行事をどんどん取り上げるという話ではありません。
自分の「好み」や「趣味」の範囲を超えた、予期せぬ状況で普通じゃない(マンネリ化していない)心理状態が生まれるらしいよと、HOKUROKUで伝えていきたいわけです。
退屈を感じている人が「自分らしさ」の殻を揺さぶり、非日常の心の動きを少しでも感じてもらえるように、北陸各地のクリエーターたちと力を合わせ、あの手この手を駆使したいとも思っています。
HOKUROKU自身が「祭り」のような非日常の体験価値をゆくゆくは仕掛けられたらすてきだなーとも思っています。
次回以降は、副編集長の大坪、開発ディレクターの武井、事業プランナーの伊藤、プロデューサーの明石の順番でコメントが続きます。
最後まで、ぜひ読んでみてください。
HOKUROKU編集長・坂本正敬
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