「受難のペルー移民史」100年も前に南米へ渡った北陸人の話

2023.09.20

vol. 04

「嵐」の始まり

日露戦争における旅順攻囲戦の様子。第1次航海移民船の佐倉丸も徴傭(ちょうよう)され、第3回旅順港の閉塞(へいそく)作戦で自沈した

 

日本からペルーに渡った移民史を振り返る一部の書籍や論文では、この第2次移民団の暮らしの苦労を蒸し返さず、比較的あっさりと書いている。

 

分かりやすさを考慮し、右肩上がりに日本人の暮らしが良くなっていく流れを優先したと考えられる。

 

しかし実際は、第2次航海移民船で各地に散開した1,179人の日本人たちの運命も壮絶だった。

 

今野敏彦・藤崎康夫編著〈移民史〉(新泉社)には、ペルーへの移住が始まってから10年後に、日本人がどうなったかを数で振り返る資料が掲載されている。

 

第1次の移民が到着した1899年(明治32年)から10年後の1909年(明治42年)に至るまで、ペルーへの移民船が12回も太平洋を渡り、計6,295人を運んだ。

 

その資料を振り返ると確かに、回を重ねるごとに、移民の死亡者数は減っていると分かる。転航者(脱走者も含む)の数も減っている。

 

富山県人も遅れて、第10次航海移民船(森岡商会の移民船で言えば7次)の満州丸に16人が乗り、首都リマの南約130kmにあるカニエテ耕地に向かった。

 

富山県人は、その「右肩上がり」の改善状況を考えると、実績と知恵が蓄積され、かなり落ち着いたころに参加したと言える。

 

それでも、第10次航海移民船に乗った富山県人で、上新川郡船峅村(現・大沢野)から来た丸山庄平は上陸後、カニエテ耕地でマラリアで死亡し、髪の毛と爪だけが母国に送られた。

 

第10次航海以後、第15次航海移民船まで計82人の富山県人が渡ったが、その多くが行方不明になり、あるいは入国後間もなく命を失った。

 

富山県人が加わった第10~15時航海移民船でもこの過酷さである。先人が根を張り切れていない第2次航海移民船で上陸した、福井県人を含む第2次移民団には当然、悲惨な暮らしが待ち構えていた。

 

第1次航海移民船で上陸した移民団790人の中から出た151人の死者と同様、第2次航海移民船で上陸した第2次移民団からも大量の死者が出た。その実数は157名で、数字だけ見れば、第1次移民団の151人よりも多い。

 

サトウキビ耕地におけるタレア(請負制度)の労働では変わらず稼げなかった。食べ物もなく、マラリア蚊が居る水辺の野草を摘んで食べる者も居た。

 

住居の環境も変わらず粗末だった。室内には、グサノ(ウジ虫)がわき、生活用水や飲料水には汚物が流れてくる。第2次移民団も、高熱と下痢に苦しみ、赤痢と腸チフスとマラリアで死んだ。

 

日本人の医師は、第2次航海移民船から同乗している。しかし、医師たちには治療の道具と環境がない。下剤とキニーネ(抗マラリア薬)を患者に与え、寝台で寝かせるだけで精いっぱいだった。

 

第2次航海移民船から3年後にペルーに上陸した第3次航海移民船・厳島丸の移民団にも厳しい暮らしが待っていた。

 

ここに、北陸県人は居ない。しかし、第3次移民団からも死者が出た。その遺体は、第1次航海・第2次航海で移住した死者たちが埋葬された耕地の墓地に運ばれた。

 

ただ、墓地には墓石がない。木の十字架が立てられているだけだった。どこの誰が眠っているのか皆目分からない。

 

一家が全滅したり、遺骨を残して無念のまま引き揚げたりする者も居た。その結果、墓地の痛みや風化は時を追うごとに激しくなった。

 

それら先人の遺骨は、サン・ビセンテ・デ・カニエテにあるお寺の住職、およびリマ市内の洋品店の経営者が80年後に収集するまで、無縁仏として各地に放置された。

サトウキビから綿花栽培へ

これだけ厳しい現実の中、どうして日本人はペルーで生き延びられたのか。劇的な何かが起きて、一夜にして世界が一変するような分かりやすいストーリーがあるわけでは決してない。

 

膨大な先陣の犠牲の上で懸命に生き延びようと各人が努力した。その基礎の上に、さまざまな状況の変化が幾重にも重なって、日本人社会は少しずつ確かな基礎をつくっていった。

 

福井県人が参加した第2次移民団と第3次移民団の間に起きた日露戦争の勝利が、日本人移民に対するペルー人の見方を変えさせた側面もある。それだけ、当時のロシアは巨大で、白人の優位性は圧倒的であり、有色人種の立ち位置は低かった。

 

日露戦争において朝鮮半島を進軍する日本人の歩兵

 

代表的な耕地には、日本人村とも言える集団集落が生まれ、明治時代の終わりには村役場のような場所もできた。

 

最初の移民団が到着してから10年後(1909年)には、リマ市内に帝国領事館ができた。その前年には、日本とペルーの間に定期航路も開かれている。

 

この時期になってようやく石川県人もペルー移民史に登場する。

 

最初の移民団が到着してから10年後(1909年)に太平洋を渡った第11次航海移民船(森岡商会の移民船で言えば8次)に1人、金沢市長岡弓ノ町に暮らした中村外雄が加わった。中村は、カニエテ耕地に向かった。

 

明治が終わり、大正時代に入ると日本人協会も設立され、ペルー日本人会も生まれた。一部の耕地には、日本人学校も開設された。

 

最初の移民が訪れてから18年後の1917年(大正6年)に、日本人協会とペルー日本人会が秘露中央日本人会として統一される。

 

時は、第1次世界大戦(1914~1918年)の真っただ中である。

 

第1次世界大戦。逃亡するフランス人家族の様子。写真:Bundesarchiv(Wikipediaより)

 

終戦の翌年には、石川県鳳至郡兜村(現・穴水町)の大西喜一郎が安洋丸に乗り込んだ。ペルー移民史に登場する石川県人は以上で終わりとなる。

 

ちょうどそのころ、ペルーの経済は急激な変化を迎えていた。特に、農業分野での変化が著しく、重労働を必要とするサトウキビの耕作から、綿花栽培へと大転換を遂げつつあった。

 

力仕事を必要としない高品質の綿花栽培は、細やかで繊細な仕事を得意とする日本人が力を発揮しやすい分野だ。日本人の働きぶりは、現地の耕地支配人の評価を一変させていく。

 

耕地を逃れ、都市部に入り込んだ人たちも同じころ、小資本で始めた商売が軌道に乗り始めていた。

 

第1次世界大戦の直前、リマ市内にある日本人の理髪店は75店あり、ペルー人経営者の理髪店30店をすでに超えていた。日本人が経営する日用雑貨店も20店存在していた。

 

戦中の1915年(大正4年)にはリマ市内で、日本人商業組合が結成されている。戦後は、組合員が108人に増え、日用雑貨店も200店に急増している。

 

第1次世界大戦が終わった3年後の1921年(大正10年)には、ペルーに公使館が設立された。

 

関東大震災が日本で起きた1923年(大正12年)、第82次航海を1つの区切りに、日本とペルー両国の関係者の合意の上で、日本人の契約移民が打ち切りになった

 

綿花栽培では重労働を必要としない。言い換えると、外国人労働者をペルー側は必要としなくなったのだ。わざわざ旅費を負担して日本人を呼び寄せても、耕地を脱走して首都リマに集まる人が後を絶たない状況もあった。

 

それでも、日本からの移民は止まらなかった。首都リマで定着した日本人の商業経営者たちが今度は、自由渡航の形で日本人を続々と呼び寄せ始めた。

 

仕事が順調に成長し、人手が必要になった時、現地の経営者たちは、ペルー人ではなく日本人移民(日系2世も)を雇った。それでも足りなければ日本から呼んだ。

 

写真のやり取りだけで結婚を決めた「写真婚」の妻(写真花嫁)を渡航させたり、親族を呼び寄せたりもした。

 

関東大震災が日本で起きた翌年、3,844戸の邦人世帯、2,057店の邦人店舗がペルー全体に存在するまでになった。

 

日本の民間企業や資本家のペルー進出も目立ってくる。ペルーに渡った人たちは皆で協力して、関東大震災の義援金を日本へ送るゆとりすら持ちつつあった。

 

関東大震災に被災し日暮里(東京)から避難する人々

 

「嵐の前」の静かなペルー社会で日本人は確実に勢力を伸ばしていったのだ。

排日の暴行事件

しかし、日本人の進出が激しくなるほど反日感情は高まっていった。各国で共通して見られる移民問題の反作用である。

 

小商い程度の活躍ならまだしも、各種の製造業に進出する者、綿花栽培で大農経営者に成り上った者、工業分野に進出する者などが1920年代に目立ち始め、ペルー人の職を奪うようになる。

 

富を蓄え、日本に送金する成功者の姿が、ペルー人の反感の対象となっていった。

 

さらに、初期の日本人は、出稼ぎ根性が前面に出ていて、現地の社会に同化しようとしなかった。

 

日本人側からすれば当然の理屈である。いつか、離れる国である。もとより、稼いで帰る予定でペルーに入った者ばかりで、ペルーに残っている者は、結果としてペルーにとどまっていただけだった。

 

しかし、ペルー人の理屈から言えば気に食わなかった。1929年(昭和4年)の秋、アメリカを発端に世界恐慌が起きると、ペルーの経済も悪化していき、失業者が増え、排日運動が露骨に増えていった。

 

世界恐慌の様子。取り付け騒ぎで銀行に殺到するニューヨークの人々

 

1932年(昭和7年)ごろから現地の新聞には、日本人警戒論も盛んに掲載されるようになる。〈アクション〉という小新聞は、

 

「日本人に決して近寄るなかれ」

 

と書いた。その2年後に、国内失業者救済を名目にして法改正が行われた。日本人の営む会社であってもペルー人従業員を全体の8割以上雇わなければいけないルールが新たに設けられたのだ。

 

同じころ、満州からの撤退勧告案が国際連盟総会で可決されたため日本は国連を脱退している。日本に対する国際社会の感情は日に日に悪化し、その国際情勢も、ペルー在住の日本人たちに不利に働いた。

 

ペルー国政府は、日秘通商航海条約を破棄した。移民、および移民の営業制限令も発表された。「嵐」の始まりである。

 

しかし、当時の移民たちはまだ、自分たちに向けられた反日感情の仕組みを完全に理解していなかった。

 

ペルー国内に約2万人の失業者が出る中、第2次世界大戦の開戦前年に、日本の陸海空軍に1機ずつの戦闘機を献納すべく、日本人会連盟総会は資金を集めて日本に送金している。

 

第2次世界大戦が開戦した年(1939年)、さらなる偶発的な不幸が起きた。

 

ドイツ軍とヒトラー(1939年)

 

日に日に難しくなる自分たちの立場をどのように切り抜けるか、日本人同士で意見が割れ、暴力事件が発生したのだ。その内紛を止めようとしたペルー人女性が暴行を受けて死亡した。

 

ペルーの新聞社は、ペルー人女性死亡事件を大々的に取り上げた。新聞社の扇動が繰り返され、地元の人たちをいよいよ動かし始める。

 

引き金は、中学生たちだった。中学生が暴動を開始すると、群衆心理にあおられた一般大衆による排日の暴行事件が発生した。日本が、真珠湾攻撃を仕掛ける前年、5月13日の出来事である。

 

排日暴動によって、日本人商店が破壊され、品物が略奪され、日本人の住宅も襲撃された。一昼夜続いた略奪は、床板をはがして持ち帰るまでに徹底された。

 

この事件を契機に、54の家族(316人)が、日本に向かう船に逃げ込むように乗って帰国した。

 

在ペルー日本人を巻き込む「嵐」はこの一件で終わらない。

 

略奪事件の翌年、1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃をきっかけに、日本人移民はどん底にたたき落される。

 

日米開戦を引き金に、ペルーにおける日系社会は、完膚なきまでにたたきつぶされる運命となってしまったのだ。

 

真珠湾攻撃で雷撃を受ける戦艦カリフォルニア

 

明石プロデューサーのコメント:移民の労働環境は決して良くならなかったと知り落胆してしまいました。

 

日本人の得意な分野の仕事ぶりが綿花栽培で生かされ、商業でも才能を発揮する日本人の姿に希望を見つけましたが、それも長くは続かず。

 

この構図は、人類が共通して持っている排他的精神の表れでしょうか。私たちが理解しなければいけない移民者への感情がリアルに書かれています。

 

ペルー人が抱く反日感情は、いい悪いは別として理解できます。ここに書かれていることの多くは、どの国にでも存在する、外国人に対する感情です。くどいようですが、映画になる題材かと思います。)

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