福井からの36人
ただ、日本人は、過酷な環境の中に屈するだけではなかった。これほどの劣悪な条件下でも必死に適応し、移住してから1年で母国へ送金する者が現れた。
驚くべき話として、移民取扱会社の森岡商会に対し移住後1年で、237人からの送金が委託されている。
最高額は、第1次航海移民船に最も多かった新潟県人の沢田家三郎(沢田豊三郎か?)の155円だった。毎月、10円以上貯金した計算になる。
送金ができないまでも、死をまぬかれた者たちは、さまざまな形で活路を見出そうとした。
他の耕地に移った者、独立して小作労働者になった者、養豚などの他業種に転じた者など、状況はさまざまだ。
首都リマで各種の契約労働者になったり、家事労働者になったりした者も50名居た。
ちょうど、その先駆者たちが、第1次航海移民船に乗ってペルーに渡り3年がたったころ日本国内では、第2次航海移民船の話が持ち上がっていた。
森岡商会があらためて、日本の外務省に対し、ペルーへの移民を募集したいと申し出た。
第1次航海移民船に乗った契約移民たちの満期は4年である。迎えの船を出さなければならない。
しかし、行きの船を空にしては損失が大きい。ただでさえ森岡商会は、トラブル続きのペルー移民事業で巨額の赤字を出していた。「移民会社軒並み経営難に陥る」と大阪朝日新聞も同年に報じている。
そこで、第2次の移民を行きの船に乗せ、契約を終えた第1次移民の帰国希望者を帰りの船に乗せようとしたのだ。
早速、メキシコ日本公使館館員の野田良治が現地調査にあたった。
“第一回で大体見当がついたから問題点は対策を構ずることとして第二回の送出を行うことは差し支えない”(〈移民史Ⅰ南米編〉よりママ引用)
と野田は意見を述べた。森岡商会の願書を全面的に外務省は受け入れた。
ただ、メキシコ日本公使館館員の野田良治の意見書では、男性ばかりで暮らしが不安定になった第1次移民の反省から、女子の移民、および妻帯者を歓迎する方向性が示された。
第1次と同じく、全国各地の新聞に広告が掲載された。その結果、1,179人が集まる。
第1次航海移民船に乗った新潟県人は1人も居ない。第1次の結果を受けて、新潟では募集が行われなかった。
しかし、この中に初めて、北陸の福井県人が36人含まれている。三方郡耳村(現・美浜町)など嶺南の人間が中心である。
第2次航海移民船のデューク・オブ・ファイフ号が1903年(明治16年)に神戸を出港する決まりとなり、曇りがちな夏の日に、福井県人を含む1,179人の移民が神戸港に集結した。
船上での出産
第2次航海移民船であるデューク・オブ・ファイフ号の航海については詳細な日誌が残っている。
日本人乗組員である松尾小三郎が記した〈南米航海日記〉である。この日記を読むと、日本から南米ペルーへ日本人の初期移民がどのように旅したのかが詳細に理解できる。
出港前の港は、第1次航海移民船である佐倉丸と同じく大変な騒ぎだった。
千人を超す移民と、それら移民を見送る人たち、船員の人だかりに加え、移民が持ち込んだ千数百個の行李(こうり、柳や竹で編んだ長方体の入れ物)、および船用具などの船内移送に忙しく立ち回る作業員で港は大変な騒ぎだった。人々の声に混じって、楽隊の音楽も港に響く。
出港の時間になると、旅立つ人・見送る人の双方が手を振り、声を張り上げた。
船は、神戸港を出て外洋を目指す。その航海の序盤では多くの移民が、慣れない船の揺れに苦しみ、菜っ葉のような顔色で船室に倒れ、胃の中身を吐き出した。
不幸にも出港後、天候に恵まれず、乗組員にとっても忍耐の航海が続いた。厳しい航海の始まりだったと容易に察しがつく。
食事中に波で揺られて、飯や煮た野菜をすべり落とし、茶びんを下げたまま転がる者も続出した。
しかし、移民たちは次第に適応を見せる。船酔いに慣れ始めると、大波にぶつかる船の揺れを利用して、おしくらまんじゅうのような遊びまで始めた。
航海は続いた。船中で、かくし芸大会が開かれたり、素人技術で床屋を開く者が現れたり、同行の僧侶による説法が行われたりした。
帆布を使った湯殿が甲板につくられると、筋骨隆々な男たちが数百人集まり、裸になって入浴を楽しんだ。
時々、島影が見えたり、異国船が近付いたりすると、数百人が上甲板に集まった。
驚くべき話として、太平洋のど真ん中、ハワイのカウアイ島近く、正確には、北緯22度27分・西経159度23分の地点で、広島県芦品郡行縢村から自由移民として乗船した池田桑太郎の妻であり妊婦の池田コサタが出産した。
玉のような元気な女の子の誕生に移民はもちろん、同乗の医師や外国人船長を含む全員が祝福した。広島県人たちの子は池田小米と名付けられた。
赤道を船が越える際の赤道祭は大変な盛り上がりを見せた。船員の障害物競走があり、仮装パーティーがあり、即席の獅子舞があり、相撲大会があり、夜の9時半ごろまで移民・船員関係なく皆で騒いだ。
船中での苦楽を移民と船員で共有しながら、神戸を出港して39日と8時間45分後に、デューク・オブ・ファイフ号はカヤオ港に到着した。
別れの瞬間は劇的だった
カヤオ港の沖合いには、サンローレンソ島が浮かび、外洋の風浪を防ぐ役目を果たしている。いわゆる、天然の良港である。
一国を代表する港として恥じない規模があると、南米航海日記を記した松尾小三郎も表現している。
大きな船を34隻収容できるくらいの規模があり、港から延びる堤防の北端と南端に灯台があった。
堤防には倉庫があり、鉄道が通じていて、物資の積み下ろしと移送にも困らない。
この港を起点に、第1次航海移民船と同じく第2次航海移民船も、荒涼な砂漠が続く海岸線をたどりつつ各地の港を巡り移民団を上陸させた。
最初は、殺風景な砂漠の中に村が見えるアンコン港である。上陸時の別れの場面は劇的だった。
端艇(ボート)に乗り換えた216人の上陸者たちは、声をそろえて船の方に叫び、手を振り、帽子を高く上げて振った。船に残された移民たちも、お互いに見えなくなるまで見送りを止めなかった。
アンコン港から上陸する一団には僧侶と医師が含まれている。一行は、港から汽車に乗り、サンタクララのエステヤ耕地へ向かった。
船は、次の港であるセロアズール港へ向かった。セロアズール港は、ペルーの首都リマの南にある。港に近付くと、土地の人間が丘の上に集まって見物している様子が見えてくる。
当時、日本の女性を初めて見るペルー人ばかりだった。物珍しさで多くの人が集まっていた。
治安を心配して、数騎の騎馬兵も耕地から迎えに来ていた。その港に551人が上陸し、カニエテ平野の耕地に向かった。このカニエテは後に、日本人移民の発祥地と呼ばれるようになる。
この時点で、500余人の移民が船の中に残された。カヤオ港に一度戻り、海岸線を北上してサマンコ港へ向かう。その間、心寂しく、思わし気な表情を多くの移民が浮かべていた。
サマンコ港には、上陸用の桟橋が一本、海に延びていた。サマンコの集落の周辺は海岸砂漠が広がるだけで殺風景だが、青々とした樹林が村落の背後に点のように広がっていた。午後5時までに120名が下船し、内陸にある耕地に向かった。
最後の集団は、ペルー北部の海岸にあるエテン港で上陸した。最後の243人は、波の浮き沈みに揺られながら、長い航海を共にした船員たちに別れの挨拶をした。
最後に、カヤオ港に戻り、便乗乗客などを降ろして、デューク・オブ・ファイフ号の往路は完了した。
1組の夫婦だけが、船中で発症した病により上陸を断念したが、1人の死傷者も航海中には出さなかった。
船上で生まれた池田小米を含む日本の移民たちはかくして、南米大陸の山野に散開した。
しかし、第2次移民団に待ち受ける暮らしも第1次と同じく極めて悲惨だった。
(明石プロデューサーのコメント:まるで小説を読んでいるようです。
第1次移民団の苦労と犠牲が次に生かされなければ、亡くなった若者たちは浮かばれないはずだと、淡い期待を持ちつつ読み進めましたが、その期待は見事に砕け散るのでしょうか?
第2次移民団が、同じ運命をまたたどるとすれば神も仏もあったもんじゃない。私は、もうすでに、感情移入せずにはいられない状態になっています。
頼む、神様、仏様。第2次移民団が、もっといい環境で労働を続けられるように、少しでも楽しみを持てる日々を送れるようにしてあげてください。)
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