ラジオの臨時ニュース
1941年(昭和16年)12月7日(ペルー時間)の日曜日は朝から晴れて、気持ちのいい日だった。
前年に発生した排日の暴行事件の渦中では、地元の警察が動かないため日本人は自警団を組織し、戦々恐々と過ごしていた。
しかし、暴動が起きてから5日後、首都のリマ周辺に巨大地震が発生し、かなりの死者が出て、潮目が変わった。
中央寺院の塔にひびが入り、無数の家屋の屋根が落ちたのにもかかわらず、日本人の被害は皆無だった。この奇妙な出来事が「神風」のような効果をもたらした。
「日本人をいじめたため、日本の天皇が地震を起こし、ペルー人をこらしめた」といううわさがまたたく間に広がる。
ペルーの人々がひざまづき、神に祈り、
「日本人に対して悪いことをした」
「盗んだ物は返す」
「許してくれ」
と叫んだ。地震が、日本人に対する見方を変えたのだ。
そもそも、この暴動に、中流以上の人たち、知識階級の人たちは参加していない。
いわば、新聞の扇動に動かされた中学生と、その学生の動きにあおられて、群衆心理の中で大衆が起こした事件だった。その群衆の騒ぎは、根拠のないうわさで鎮まった。
日本人は、以前と同じく外出ができるようになった。1941年(昭和16年)12月7日(ペルー時間)の日曜日も、海岸に出掛けて散歩を楽しんだ者が少なくなかった。
しかし、午後になって一部の日本人が、ラジオの日本語放送を聞こうとスイッチをひねると、
「間もなく 臨時ニュースを申し上げます」
と繰り返すアナウンサーの声が聞こえてきた。続きを待っていると、軽やかなジングルの後に、耳を疑うような臨時ニュースが届いた。
“臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました”(NHKのホームページより引用)
真珠湾攻撃である。このラジオ放送を、鹿児島出身の松田市太郎の自宅で聞いていたなにがしは、日本人の集まっていた野球場や暴動被害者会議の講堂に駆け込み変事を告げた。当時のラジオ普及度は低かったからだ。
現地紙からは号外が出た。夕方には、日本人のほぼ全てが開戦を知る。
即座に、現地で発行されていた邦字新聞〈秘露日報〉〈リマ日報〉〈ペルー報知〉が閉鎖に追い込まれた。
日本人の個人、および商社の資金が凍結された。日本とペルーの戦争ではない。しかし、ペルーは、南米大陸にあり、アメリカの勢力圏にあった。
真珠湾攻撃から1カ月半ほど、年が明けると、ブラジルのリオデジャネイロで、南北アメリカ大陸21カ国の外相が集まる第3回汎米外相会議がアメリカの呼び掛けにより開催され、対日本との国交が断絶された。
日本公使館と領事館は閉鎖に追い込まれ、ホテルに館員が軟禁される。
ラジオでは日々、日本軍の勇ましい戦果が報じられた。日本人は、肩身の狭い思いで結束し、嵐が過ぎるまで身を寄せ合うしかなかった。しかし、その結束が余計に裏目に出たとの見方もある。
日系社会における重要人物が突然、逮捕され始めた。中央日本人会会長、新聞社の人たち、リマ日校校長などの12人で、全員が収容隔離された。
3人以上の集会が禁止され、運転免許証を没収され、国内旅行が許可制になり、電話も接収された。日本人社会は次第に統制を失っていく。
強制送還第1号
真珠湾攻撃から数カ月後、日本人男子で独身者の帰国募集があった。141人が応募し、エリントン号に乗ってカヤオ港を出た。1942年(昭和17年)4月4日の出来事である。
その10日後、アメリカ政府の指示を受けたペルー政府による強制送還が始まった。強制送還第1号のアカディア号がカヤオに寄港し、日本の外交官ら関係者と家族48人を拘引して、アメリカの収容所に送った。主に、アメリカや連合国側の在日外交官らと人質交換するためである。
アカディア号はパナマ運河を通過し、キューバに寄港してからメキシコ湾に入り、アメリカ大陸に日本人を降ろして抑留所に連行した。
ペルー国内では一方、日本人が経営するお店にペルー人が現れ、経営権をはく奪し、店舗そのものを競売にかけた。
最初の強制送還が行われた2カ月後、342人の日本人男女が新たに、シャウニー号で北米に送られた。首都リマや地方部の有力者、小学校教師、新聞社関係者、希望帰国者、誰かの身代わりになった者などが含まれていた。
次の強制送還はその半年後に飛行機で行われた。送還された者はペルー国内で、国民服を着た罪を問われた。国民服とは、カーキ色の学生服のような衣類である。
こうした強制送還は、日本が敗戦を迎える年の2月に行われた第15次まで続いた。当時、3万人ほど居た日本人移民とその家族のうち、主要人物とされる計1,771人が強制連行され、北米各地の収容キャンプ(抑留所)に送り込まれた。
抑留所に連行された日本人移民たちはまず、抑留所で労働をさせられる。抑留所には、ドイツ人なども居た。
パスポートを取り上げられ、裁判にかけられた日本人移民たちは後に、不法入国の罪で罰せられた。
抑留所で敗戦を迎える者も居たが、交換船に乗せられ、アフリカやアジアの港に向かい、アメリカ将兵の捕虜と交換された日本人移民も居た。
アメリカの捕虜と交換された日本人は、日本側の交換船に乗り換えると、その足で戦地に連れて行かれ、現地召集の形で兵士に仕立てられ、戦線に投下された。多くの日本人移民は生死の消息をそこから絶った。
日本語放送のラジオによると日本軍は転進を続けていた。転進とは、不利になって敵から逃げる日本軍の行動を、あたかもそうでないかのように表現する際の言葉である。
その表向きは勇ましい報道内容を、ペルー国内に残留する日本人移民たちは客観的に受け止めた。残留者たちは、近い将来の敗北を悟った。日本から遠く離れた土地に彼ら・彼女らは暮らしていたので冷静に物事を評価できたのだ。
日本の本土爆撃が始まり、新型爆弾が広島と長崎に投下され、日本各地が焼け野原になった。
この時初めて、多くの残留者たちは、日本への帰国を諦め、ペルーに骨を埋める覚悟を持った。仕事に励み、子どもたちに良き将来を用意しようと決意した。ペルー人と結婚する日本人も続々と現れた。
日本人社会が迎えた最初の頂点
戦後、ペルーに残された人たちは、どうなったのだろうか。幸いにも、中流以上の一般のペルー人たちは日本人に同情的だった。
日本の敗戦をペルーで迎え、日本からの支援も失った日本人移民の残留者たちは、静かに運命を受け止め、再建に黙々と取り組んだ。
まず、頼母子講(たのもしこう、無尽・無尽講とも)を始めた。皆でお金を出し合い、まとまったお金を特定の会員に渡す互助組織だ。まとまったお金が全員に行き渡った段階で解散する。
ペルー人や中国人の所有になっていたお店を買い戻す者もあり、そのまとまったお金を使って養鶏場を始める者もいた。
残留者たちは、戦中の出来事を教訓に、新店舗や新会社の名義を2世の子どもたちの名前にした。ペルーで生まれた2世たちは二重国籍者だった。
戦争が終わって1年後、3人以上の集会、日本語の使用、日本語新聞の発行が解禁された。
日本人はようやく母国語で、それぞれの境遇をなぐさめ合えるようになった。
もちろん戦後、日本人の復興を妨げる動きは当時のペルーにもあった。例えば「勝ち組」の存在である。
経済的に成功した者を意味する現在の勝ち組とは異なり、日本の敗戦を信じず、狂信的で暴力的な行動をする日本人の偏狭者たちを意味する。彼らは、
「負けたというやつは不忠者であるから罰を加えよ」
と声高に叫んで、同胞の日本人に脅迫を繰り返し、現地の警察に逮捕された。現地の新聞で報じられるそれら「勝ち組」の存在が、反日感情を蒸し返す結果となったため、多くの日本人にとっては迷惑千万な話であった。
それでも、日本の敗戦を信じない「勝ち組」の圧力を横目に、大多数の日本人は着実に復興の道を歩んでいった。
「復興はスポーツから」という掛け声と共に、移民1世・2世の間でスポーツ交流も盛んに行われた。
敗戦から5年後、日系社会の発展と子弟の健全な成長を目的とした太平洋クラブが設立された。この時、移民1世は約1万2千人、2世が約3万人、ペルーに居たとされる。
1950年代には、三笠宮ご夫婦、岡崎勝男外相(当時)、岸信介首相(当時)がペルーを相次いで訪れた。岸信介とは、安倍晋三元首相の母方の祖父である。
北陸関係で言えば1971年(昭和46年)、中田幸吉知事(当時)一行の訪問を機に富山県人会が設立されている。
1979年(昭和54年)には、ペルー移住80周年の祝典行事がリマで開催された。
このころ、日系人社会は6~7万人規模に拡大していた。その発展の中で日系人は、地方議会・首長に続々と人材を送り込み、80周年の祝典行事の前年には、マヌエル川下を国会議員に当選させていた。
軍部・官界・学会にも進出した。アート・スポーツの分野でも、ペルーの日刊紙の記者職・編集職でも、トップクラスのポジションで活躍する日系人が続出した。
さらには、1990年(平成2年)、日系社会のみならず、ペルー全土を驚かせる出来事が起きた。
政治が混乱し、経済が停滞し、貧富の格差が拡大するペルーにおいて、日系2世のアルベルトフジモリ大統領が誕生した。
アルベルトフジモリの父親・藤森直市は熊本県出身の日本人移民である。
1920年(大正9年)に紀洋丸でペルーへ渡り、パラモンガの耕地に配属された後、仕立て屋で生計を立て、アルベルトを育てた。母・ムツエも、1935年(昭和10年)にペルーに渡った日本人だ。
日本人がペルーに渡っておよそ90年後、移住先のペルーにおいて日本人社会が最初の頂点を迎えた。
終わりに
筆者の手元には〈日本人ペルー移住八十周年記念誌 アンデスの架け橋〉(日本人ペルー移住八十周年祝典委員会)がある。
1979年(昭和54年)に首都リマで開催されたペルー移住80周年の祝典行事を機に刊行された記念誌である。
同記念誌には、移民の80年の歩み、戦没者の遺骨収集記、祝典の行事報告、日本とペルーの関係年表などが掲載されている。
その本をめくっていると、157ページから332ページに掲載された膨大な数の個人広告にやがて目が留まる。
日本語で、時にはスペイン語で、各業種・組織の代表者たちが広告を掲載していた。その厚みは、記念誌の全ボリュームの半分に達する。
和洋食器の製造会社もあれば、車のガラスの製造メーカーもある。自動車販売の会社もあれば、石油運送業の会社もある。日本の有名商社の名前も多く見受けられた。
心臓外科医も居れば歯科医師も居て、日系人の活躍の幅の広さと広告数の多さに、日系人の歩みをあらためて感じさせられた。
残念ながら、北陸各県の地名は探せなかったが、膨大な数の広告には、自分が(あるいは親が)何県出身なのか、書き込むケースも目立った。
“記念誌そのものが後世の人たちの目に止まるとき、どのような感で読んでいただけるか、恐ろしいようなまた楽しいような気持ちになる。しかし、その頃にはもう自分はいないはずだから、どんな批評を受けようとも痛くもかゆくもない。ただ昔の人はえらかったな、こんな大きい八十周年という事業を、そして、よくもこれ程の記録を残しておいてくれたとおもってくれるだろう”(〈日本人ペルー移住八十周年記念誌 アンデスの架け橋〉より引用)
記念誌の後書きには、ペルー新報社社長の上述の一筆がある。
「昔の人は偉かった」
ペルーに渡り、日本人社会をつくり上げた先人たちの生きざまから確かに学ばせてもらった。昔の人は本当に偉かった。
富山県人の82人、福井県人の195人、石川県人の2人を含む日本人たちは、第1次航海移民船の佐倉丸が横浜港を出た1899年(明治32年)から、真珠湾攻撃を日本軍が決行した1941年(昭和16年)までにペルーに渡り、それぞれの運命の下で懸命に生きようとした。
その種は、やがて芽を出し、大きく育って、花を咲かせ、果実を実らせた。
彼ら・彼女らの偉大さのほんの一端でも〈HOKUROKU〉の読み物を通じて、現代の北陸に暮らす若い読者に伝えられたら望外の喜びである。
(明石プロデューサーのコメント:移民問題は、政治の武器に使われるケースが多いと思います。
例えば、アメリカとメキシコの国境はいつも何かの問題がぼっ発してします。受け入れか、拒否かによって選挙の票にも大きく影響を与える問題です。
「われわれ国民の職を移民者が奪う」そんなフレーズは日常茶飯事に耳に入ってきます。
高齢化・人口減少が進む日本では、働き手の確保として移民の受け入れが議論されています。こうした歴史をしっかりと勉強し、政治家の先生たちには良き方向性を導き出してもらいたいと願います。
ペルー移民を経験した先人の皆さま、ペルーで根を張り生きてきた・生きている皆さま、全ての方に感謝と敬意を表します。ありがとうございました。)
文:坂本正敬
編集協力:明石博之・武井靖
取材協力:浜野龍峰(書家)・富山南米協会・富山県立図書館・石川県立図書館・福井県立図書館
参考文献〈日本人ペルー移住八十周年記念誌 アンデスの架け橋〉(日本人ペルー移住八十周年祝典委員会)
〈ペルー国日系人実態調査報告書〉(国際協力事業団)
〈移民史Ⅰ南米編〉(新泉社)
〈南米日系移民の軌跡〉(人間の科学社)
〈富山県南米移住史〉(富山県)
〈南米石川県人名簿 石川県海外協会編〉(石川県海外協会)
〈南米石川県人写真帖 西 外居編〉(石川県海外協会)
〈南米石川村移住地の実態〉(石川県海外協会)
〈南米移民案内〉(丸十書店)
〈南米移民殖民渡航便覧〉(南米社出版部)
〈日本の移民研究 移民研究会編〉(日外アソシエーツ)
〈南米ペルー〉(日秘協会創立事務所)
〈外務省が消した日本人〉(毎日新聞社)
〈移住・移民の世界地図〉(丸善出版)
〈アンデス・インカをゆく〉(小学館)
〈福井新報〉1888年(明治21年)12月2日
〈ペルーの日本人移民〉(日本評論社)
論文「海外出稼移民によるネットワークの形成と展開 : ペルー移民を素材として」赤木妙子著
〈海外移民ネットワークの研究〉(芙蓉書房出版)
Pioneros ペルー日本人移民データベース
第二次世界大戦中に強制収容された日系人に対するもう一つの戦後補償 ――日系ペルー人ヘクター・ワタナベさんの闘い―― - 賀川真理
フジモリ大統領の横顔 - 外務省
元年者――最初の海外移民 - 国立国会図書館
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