北陸に伝わる怪談話。金沢の「子育て幽霊」編

2021.08.13

第5回

三ノ丸御番所への報告

 

子育て幽霊の奇跡から17年近くがたった。

 

金沢城の三ノ丸に三ノ丸番所が当時あった。馬廻組に所属する侍が勤番する番所の1つである。

 

馬廻組とは、主将の馬近くで護衛にあたる騎馬の武士を本来は言う。言葉だけ見ると立派だが、加賀の馬廻組は素行が悪かった。

 

例えば、1664年(寛文4年)5月、馬廻組の士・岩田平蔵は長谷観音へ参拝した日、宿で仕女を殺し、追放されている。

 

馬廻組の士・田邊彌五作は同年、同じ馬廻組の阿部九郎右衛門とけんかし、相手を切り殺した罪で切腹を命じられている。

 

さらに同じ年、定番馬廻組の吉田又右衛門の子ども・勘右衛門が牢人(ろうにん)の服部入也と酔ってけんかになり、切り殺している。

 

4年後の寛文8年には、定番馬廻組の士・野村権兵衛と藤縣虎助が公文書と印鑑を偽装し、知行米(給金)に関する不正を働いた。間もなく切腹を命じられている。

 

後の1690年(元禄3年)には、定番御馬廻組の高崎半九郎ら8人が町人と組んで19人の遊女を屋敷や空き家へ引き入れて売春させた罪で、五箇山(現在の富山県南砺市)へ流刑された。

 

関与した町人は首をはねられ、死刑を免れた者でも耳や鼻をそがれている。遊女は、奥能登へ送られた。

 

その時代の話である。

 

写真:金沢市観光協会

 

300石を取る馬廻組の士・寺西庄兵衛の家人で十兵衛とかいう者が、16時過ぎ(七つ)に番所へ来て勤番を終えた主人の身支度を手伝っていた。

 

野町の風呂屋で湯女(ゆな)に汗でも流してもらうのかと周りの者がからかった。

 

十兵衛は頭を下げて笑い否定した。

 

立像寺へ行くという。

 

金沢城中で飼育している白鳥がその時、甲高く鳴いた。

 

立像寺とは、例の子育て幽霊が出たお寺である。母の17回忌の作善を若い僧侶が立像寺でするらしい。十兵衛らは参列を予定していた。

 

何人かの勤番の士が興味を示した。17年前に立像寺で起きた事の始末を十兵衛は語った。

 

一同は一様に心を打たれ、近親に口伝したという。

後書き

 

森田小兵衛盛昌(もりまさ)の耳にその話が後に入る。冒頭でも書いた〈咄随筆〉の作者である。

 

加賀藩馬廻組の士・中川七兵衛重良の家来で森田久右衛門康政を父として持つ盛昌は父から聞いたのか。

 

森田小兵衛盛昌は子育て幽霊の話を文字として収録し、結果として今日に残る決定的な仕事をした。

 

子育て幽霊の説話は今も金沢の人たちに語り継がれている。

 

最大の驚きは幽霊話に登場する墓地や地蔵、寺、地名が現存する点だ。第2次世界大戦の空爆を免れた金沢には江戸時代の歴史がそのままに残されている。

 

子育て幽霊のゆかりの地が今もなおまち中に存在する奇跡に北陸の人たちは感謝したい。

 

副編集長のコメント:森田小兵衛盛昌がまとめた〈咄随筆〉には他にも金沢の口伝が収録されています。

 

いずれも当時の金沢の暮らしを興味深く伝える内容で、HOKUROKUとしては300年前の大先輩に敬意を払わずにはいられません。

 

興味のある方はぜひ読んで、登場する金沢のまちを巡ってみてください。)

 

文・写真:坂本正敬

カバー写真:山本哲朗

編集:大坪史弥・坂本正敬

編集協力:明石博之

郷土を離れ諸国を流浪する人。浪人とも書く。

温泉場や風呂屋で浴客の世話をした女性。次第に一部は売春した。

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