分かりやすく美しい「句読点」の打ち方と使い方を考える。新・文章読本

2021.06.30

vol. 01

読点の打ち方は小学校の先生も知らない

 

―― 今日は、よろしくお願いします。〈HOKUROKU〉編集長の坂本正敬です。

 

オンライン取材で専門家の皆さんに聞かせてもらいたいテーマは読点(、)です。

 

なんで読点という細かい部分に注目して特集を組もうと思ったのかと言えば「読点ってどうやって打てばいいのですか?」との相談を2人の成人男女から同じタイミングで別々に最近受けたからです。

 

企業のプレスリリースを書く中で伝わる文章を書こうといろいろ勉強していたら読点の問題にぶつかった人たちでした。

 

何も意識せずに気楽に書く文章であれば読点(、)の位置など気にせず打ちたい場所で打てばいいのだと思います。

 

しかし、不特定多数の人にオフィシャルな文章を書こうと思うと普段以上に読点が気になってきたみたいなのです。

 

小・中学校で読点(、)について習った記憶も彼ら・彼女らはなかったそうで、読点に関するルールを明確に断定してくれる本も見付からなかったみたいです。

 

その結果、どこで道を間違ったか私の下へ質問の「バケツ」が回ってきたわけです。

 

例えば、名文家として知られる文豪の谷崎潤一郎が文章の書き方についてまとめた〈文章読本〉があります。

 

撮影:坂本正敬

小説の書き方(文学的な文章論)よりも、

”この読本は、いろゝゝの階級の、なるべく多くの人々に読んで貰う目的で、通俗を旨として書いた”(文章読本より引用)

普段使いの散文に関する文章論です。

 

突っ込んだ文章論がその本では展開されていますが、肝心の読点(、)に関しては「到底合理的には扱いきれない」と書かれています。

 

私自身も大学1年生のころにこの本を読みました。読点の説明で肩透かしを食らった記憶がはっきりとあります。

 

言われてみれば、私も学校で読点の打ち方を正式に習った記憶がありません。

 

そこで、読点(、)の問題に一定の合理的で合目的性を持った機能的なルールを導き出してみようと、言葉の専門家である宮城信さんと堀一心さんにオンラインで今日は集まってもらいました。

 

取材の様子。オンラインで行われた。写真左上が堀一心さん。写真下が宮城信さん。撮影:武井靖

宮城さんは富山大学の准教授で国語科教科書の編さんにも携わる方です。読点に関する論文も書いていますよね。

 

堀さんは一方で、元新聞記者、福井の有名月刊誌〈月刊fu〉の編集長を現在は務めています。

 

月間80万PV(ページ・ビュー)を超える福井のウェブメディア〈ふーぽ〉の編集長でもあります。

 

これ以上の適任者は北陸には居ないと思われます。そんな2人と一緒に読点のルールについて今日は考えられればと思います。

 

ちなみに、今回の特集のタイトルには「美しい」の言葉を入れようと思っています。

 

理路整然とした無駄のない読点を配置しながら、文意を伝える本来の目的を高いレベルで実現できれば、結果として「用の美」や「機能美」のような美しさも文章に出てくるのではないかと思っています。

 

その意味で、意図して「美しい」もタイトルで訴える予定です。

 

以上のような意図で今日は話をさせてもらいます。よろしくお願いします。

 

宮城:よろしくお願いします。

 

堀:坂本さん。ちょっと冒頭でお伝えしたいのですが「HOKUROKUさんに取材を受けました」とふーぽでも紹介させてもらうために、この取材の様子を今日は撮影しています。

 

画面の外側にカメラマンが居るのですが、ふーぽへの掲載はお2人とも問題ないでしょうか?

 

―― もちろんです。

 

宮城:問題ありません。

 

堀:ありがとうございます。

 

―― 今回の特集づくりを通じて同じ北陸に拠点を置くウェブメディアが連携を開始するといった祝祭感を演出できれば最高ですよね。

 

内容的に渋すぎるのでお祭りムードは出しにくいのですが。

 

堀:これを機にこれからいろいろやっていきましょう。

 

―― 「ローカル・WEBマガジン・レポート」という連載をHOKUROKUではこの前から組んで、北陸の魅力的なウェブメディアを紹介し始めています。

 

そちらにもぜひ登場してもらえればと思います。

関連:ローカル・WEBマガジン・レポート〈ふーぽ〉編

それでは、本題へ入る前にそれぞれ順番に簡単な自己紹介をお願いしてもいいですか?

 

まずは、宮城さんから。

 

宮城信さん。撮影:武井靖

宮城:富山大学人間発達学部の宮城と申します。

 

教育学の文脈で子どもたちの書き言葉と話し言葉にはどのような関係があるのかを研究していて、その流れで読点の打ち方を集中的に調べていた時期がありました。

 

機器の発達によって書き言葉と話し言葉の違いをダイレクトに最近は調べられるようになったのですが、私が大学院生のころは機器も発達していなかったので子どもたちの作文を集めて分析していました。

 

そのあたりの話が坂本さんに引っ掛かって今日はお声掛けいただいたのかなと思っています。

 

ただ、現実問題として公教育で読点(、)の話はしっかり取り上げていません。

 

読点について教えた方がもちろんいいと思いますし、教えられたらいいとも思っていますが、放っておいたらどうにかなるんじゃないかなんて楽観的にも一方で最近は思っています。

 

読点についてかっちりとした提案ではなく、実情に合わせてどういった提案ができるかを今日は考えられればと思います。

 

―― ありがとうございます。では、堀さんお願いします。

 

堀一心さん。撮影:武井靖

堀:福井新聞のグループ会社のfuプロダクションという制作会社で社長をやっている堀と申します。

 

もともとは福井新聞で10年以上記者をやっていました。地元で30年以上の歴史がある〈月刊URALA〉というタウン誌の副編集長に一度は転職したのですが、また戻ってきて現在は月刊fuなどをつくっています。

 

2021年7月号

―― 月刊fuは、福井で知らない人は居ないくらいの雑誌なのですよね? 堀さんを紹介してくれた福井市在住のディスプレイコーディネータ・筧いづみさんが言っていました。

関連:「展示と陳列」の正解を筧さんに学ぶ。お店の棚の並びに違いを生む方法

堀:ありがたいことに読者はたくさん居て、おかげさまで福井新聞と同じ約18万部を発行しています。

 

ただ、雑誌の仕事は事業の一部で会社としては企業のパンフレット・行政のパンフレット・動画などのコンテンツを幅広くつくる仕事をしています。

 

HOKUROKUさんと同じように福井の情報サイト〈ふーぽ〉も運営して編集長をやっています。月間80万PV(ページ・ビュー)までこちらは成長していて100万PVを今年は目指しているところです。

 

日本語というか文字をつくる現場にはその意味で長く携わってきたかなとは思います。

 

ただ、宮城先生のように読点の理論を体系的に築き上げているわけではないので、私も勉強させてもらう姿勢で今日は参加しています。

教科書にしれっと登場する

―― それでは本題に入りたいのですが、文章の専門家として第一線で堀さんは活躍されているわけですよね。

 

そもそもの話として学生時代に読点を習った記憶はありますか?

 

堀:読点について習った記憶は、えー、ないです(笑)

 

―― そうですよね。

 

宮城さん、そこで聞かせてもらいたいのですが、どのように読点(、)を学校で教えているのですか?

 

ちょうど、うちの上の子が今年小学校の1年生になりました。国語の教科書を見せてもらうと平仮名の文章が文節(意味のまとまり)ごとにスペースで分かち書きされています。

 

例えば、

“いい てんき

さあ いこう

ひろい せかいへ

とびだそう

わくわくするね

たのしいね”

〈こくご 一 上 かざぐるま〉(光村図書)より引用

といった感じです。この文章を読んで親として感動しながら「こんな感じでスペースを使って分かち書きを最初はするんだ」と同時に思いました。

 

しかし、数ページめくると、

“おんがくしつに、

おおきな たいこが

ありました。

たたいて みたいです。”

〈こくご 一 上 かざぐるま〉(光村図書)より引用

みたいな感じでしれっと句読点が登場しています。

 

「この『おんがくしつに、』の点って何?」と子どもに聞くと「分からない」と答えます。

 

「『たたいて みたいです。』の丸は?」と聞くと「言葉の最後に丸を書くんだよ」みたいな感じで答えてくれるわけです。

 

授業参観に行った際にも句点(。)の説明が口頭でされていました。しかし、読点(、)については先生から言及が何もありませんでした。

 

そうなると「読点(、)については学校で習わないまま終わる説」がますます信ぴょう性を帯びてくるのですが実際はどうなのでしょう。

 

宮城:句点(。)は、比較的分かりやすくて文の切れ目で置きますよね。

 

しかし、読点(、)は非常に扱いが困る存在なのです。

 

坂本さんがおっしゃるとおり低学年だと教科書ではスペースを置きます。

 

平仮名で書かれているのでスペースで切らないと意味が分からない上に誤読が生じてしまいます。そこで、単語に助詞がくっついた文節レベルで区切るわけです。

 

 

ただ、読点(、)についてはわれわれも迷う時があります。

 

例えば「しかし、」だとか主語の後の「~は、」「~が、」のように打たなくてもいい読点(、)もあれば「~したり、」「~ならば、」のような確実に打てる読点(、)もあります。

 

確実に打てる点であっても「こんなところに打つよね」と指導できるだけで「絶対に打たなければ駄目」とまでは言い切れきません。

 

自分のスタイルで打ちなさいとの指摘でとどまります。

 

結果として何が起こるかと言えば、作文を書かせるとひたすら読点を打たない子どもとやたら読点を打ちまくる子どもが出てきます。

 

その作文を見て「多いよね」「少ないよね」と自分の勘で先生は増やしたり減らしたりします。

 

強いて言えば、教科書を見ながら考えようとは言いますが、読点のルールが教科書に具体的に書いているかと言えば書かれていないです。

 

―― では、学校で習っていないという漠然とした記憶は正しかったわけですね。

 

宮城:おっしゃるとおりです。言ってしまえば、読点の正しい打ち方を先生も知らないと思います(笑)

 

先生も自分のスタイルがあって、そのスタイルに沿ってああだこうだと指導しているだけです。

 

その結果、その子のスタイルがなんとなく出来上がっていくのですね。

昔の日本語に読点(、)は存在しない。

―― そうなると素朴な疑問が浮かんできます。そもそも読点(、)は何のために存在しているのでしょう?

 

日本語には読点(、)が昔から存在するみたいな顔をするので誤解されがちですが、昔の日本語に読点(、)など存在しないですよね。

 

例えば、清少納言の〈枕草子〉の原文を国立国会図書館デジタルアーカイブで読むと文中に読点(、)はありません。しかし、現代の文庫本で枕草子を読むと点が入っています。

 

〈枕草子〉。国立国会図書館デジタルアーカイブのホームページ画像をスクリーンショットして挿入

この読点(、)とは一体何者なのでしょうか?

 

宮城:その辺が、日本語にうまく読点が定着しない理由なのだと思います。

 

坂本さんがおっしゃったように古い日本語には読点(、)も句点(。)もありません。濁点も半濁点もありません。

 

極論を言えば「自分で読み取れ」といった感じです。

 

さすがに、室町から江戸期の翻訳資料になると読点(、)の走りのような点が打たれ始めるのですが、日本人には漢文を読む習慣が並行してありました。

 

今みたいに体系化された「レ点」とか「一二点」とかがない時代は、読みやすくするために読む人が頑張って文の横や下に点を打ったりしていたわけです。

 

その読みやすくするために打った点が今の読点や句点の原型になったわけです。

 

さらに、別の流れとして、日本の古い(点がない)文章に後世の人たちが読みやすいように点を足した歴史もあって、日本流の句読点が生まれていきました。

 

プラスして、明治時代になって西洋の表記法も入ってきます。この流入がなければ日本の句読点にも大きな混乱が起きなかったのかもしれません。

 

西洋文法では、カンマ(,)・コロン(:)・セミコロン(;)・ピリオド(.)の使い方が確立しています。

 

文章の表記方法としてそれらの文化が日本の明治時代に入ってくるのです。

 

もともと日本にあった句読点は、必要に応じて既存の文章に読む人が打ってきた区切り記号です。

 

西洋式の区切り記号は、書く人が守るべきルールとして打たれます。

 

読む人のための区切り記号に書く人のための区切り記号が流入した時、両者の間で衝突が起きたわけです。

 

どっちへ行くか迷った結果、最終的には「どっちでもいいよね」との判断になりました。

 

―― どっちでもいいよねとなったんですね(笑)

 

宮城:いろいろな意見があると日本人はいつも折衷案をとります。仮名遣いも漢字の表記も送り仮名も同じです。

 

いろいろな意見が出ると一番文句が少ない案をまとめてなんとなく使ってしまう文化があります。

 

その判断を「慣用に寄せる」と言うのですが、その慣用で使われている読点のルールを当時の文部省が1906(明治39)年に〈句読法案〉としてまとめます。

 

〈句読法案〉。国立国会図書館デジタルアーカイブのホームページ画像をスクリーンショットして挿入

ただ、この句読法案も読点についても「こうだ!」と強く言う内容ではなく「できれば従ってください」みたいな書き方をしています。

 

その辺もあいまいだったせいで読点の使い方はいまだに混乱しているのだと思います。

 

もしかすると、混乱しているとすら考えていない日本人も多いかもしれません。これでいいやと。

ルールを見て忖度(そんたく)してください

―― とても興味深い話なのですが「従ってもいいですよ」的な弱いメッセージしか込めていないなら何のために文部省(現・文部科学省)は句読法案を出したのでしょうか?

 

宮城:読点の機能に興味があるだけで歴史にはそれほど詳しくないのですが、句読法案を文部省が出した背景にはそれなりの必要性がありました。

 

明治政府ができた段階で文章の書き方は、江戸時代の各藩にある藩校のルールによって違っていました。

 

もっと言ってしまえば、お寺なども宗派で読点の打ち方に違いがありました。

 

そのような状態で日本に統一した表記が必要となります。

 

具体的には、教科書の表記を統一したいとの思いがあったのですね。

 

教科書を統一すれば教科書で学んだ子どもたちが教科書どおりの読点(、)の打ち方をするようになります。

 

「このとおり読点を打ちなさい」といきなり全員に言っても聞かないので教育から少しずつ変えていこうという狙いがあったのです。

 

―― 昭和に入ってからも読点のルールを定めた〈くぎり符号の使ひ方〉が出ていますよね?

 

宮城:くぎり符号の使ひ方はまた、ちょっと違った狙いがあります。

 

皆さんのやられているようなメディアが江戸時代以降に民間レベルで次々と現れて、明治期に入ると印刷技術の発展と絡んで、いよいよその数も爆発的に増えてきました。

 

結果として表記が混乱したまま野放し状態になります。

 

国民全員が読めるレベルの公文書などはある程度表記のルールを統一しなければ駄目だとの意味から、くぎり符号の使ひ方が出されたわけです。

 

〈くぎり符号の使ひ方〉。国立国会図書館デジタルアーカイブのホームページ画像をスクリーンショットして挿入

とはいえ、読点の問題についてこれ以降は政府は何も改定していないですよね。

 

何を言ってもこれ以上はあまり変わらないという感じがあったのだと思います。

 

「このルールを見て忖度(そんたく)してください」といったレベルで過去の指針にしても出されてきただけだと私は受け止めています。

 

―― 言ってしまえば「あいまいさを放置したままお茶をにごす」といった日本人らしい精神が読点(、)にも表れているのですね。

 

副編集長のコメント:どうやら教育の大部分を担う国自体が読点のルールをしっかり決めていないようです。

 

とはいえ、この状況を気持ち悪く思った人もきっといるはず。

 

ロジカルな読点の打ち方を提唱した元朝日新聞記者・本多勝一さんの考え方をベースに次回は話が進みます。)

「動詞・形容詞・助動詞ノ中止法ヲ用ヒテ続ケタル同趣ノ語・句・節ノ下」「二ツ以上畳ミタル同趣ノ文ノ下但シ最後ノ文ノ下ハ此限ニ在ラズ」など20項目のルールが定められている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903921

「テンは、第一の原則として文の中止 にうつ」など13項目のルールが示されている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126388/1

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