表現の自由と表現の不自由
事の経緯その1
事件のキーワードは「表現の自由」である。表現の自由と聞いてどのように感じるだろうか。
「表現の自由を守らなければならない」といったスローガンを文字どおりに理解すれば反対する人は居ないだろう。
しかし「表現の自由」をどこまでも守ろうとすれば、誰かが不快に思う表現でも尊重しなければいけなくなる。
2019年(令和元年)に、愛知県で開催された〈あいちトリエンナーレ2019〉の展示「表現の不自由展・その後」が好例である。
同展の展示作品の中には、美術作家・大浦信行氏による映像作品〈遠近を抱えてPart2〉があった。
大浦氏は富山の生まれである。連作版画〈遠近を抱えて〉をはじめ版画などを多数製作し、国内外の展示会で表現活動を続けてきた。
「表現の不自由展・その後」に出展した大浦氏の映像作品は昭和天皇の肖像をコラージュした版画が燃えるシーンを含む。
「昭和天皇を燃やすなんて失礼だ」「天皇制の批判だ」と抗議活動が大きくなり全国の人が知るニュースとなった。
最終的に展示は中止に追い込まれ、芸術家の表現の自由や国民の知る権利の侵害なのではないかと問題にもなった。
まだ、2年ほどしか時間が経過していない。北陸の「対岸」に位置する愛知の出来事であっても多くの人が記憶しているに違いない。
しかし、大浦氏の作品である「天皇コラージュ」の騒動は2019年(令和元年)の愛知が初めてではない。
「対岸」どころか富山を舞台にして「天皇コラージュ」をめぐる裁判闘争が1986年(昭和61年)に起きている。
今回の「謎解き」で取り上げる裁判闘争である。
「天皇コラージュ」とは
「天皇コラージュ」と呼ばれる作品は、美術作家・大浦信行氏による〈遠近を抱えて〉の連作版画である。
コラージュ1と呼ばれる手法を用いた作品で、昭和天皇の肖像と、東西の名画・解剖図・家具・裸婦などを組み合わせている。
1986年(昭和61年)3月15日から同年4月13日、富山県立近代美術館主催の展示会〈86富山の美術〉が開催され、同氏の連作版画、いわゆる「天皇コラージュ」4点が展示された。
この「天皇コラージュ」が騒動を招くきっかけとなったのだ。
同展示会の出品作家や作品がどのように決定されたのか背景を確認する。
富山県立近代美術館に限らず美術館は博物館法2条1項の「博物館」の一種とされる。社会教育法の精神に基づく「社会教育施設」として位置づけられている。
原則として、多数決で物事を決める民主主義の国家であっても、学問や教育の分野では何が正しいのかを多数決で決めない。学問や教育は政治的に中立でなければならない。
多くの公立博物館はそこで、博物館協議会(博物館法20条1項)を設置する。その協議会が、館長の相談に応じたり意見を述べたりする。
富山県立近代美術館も一緒で、富山県近代美術館運営委員会が設置されていた。
さらに、この美術館運営委員会とは別に、政治的中立性を確保しながら収蔵品を適正に取得・処分するための諮問(しもん)機関として、美術館収蔵美術品選定委員会を要綱により設置する美術館も多い。
86富山の美術の際にも展示会に先駆け、富山県近代美術館収蔵美術品選定委員会が設けられ、富山県在住・出身の作家60人の中から30人が専門家として選ばれて、美術品の取得について審議した。
その上で館長が意思決定し、当時の富山県知事であった中沖氏あてに意見書を提出した。
美術作家・大浦信行氏の作品については「社会的な現象を一定のパターンにとらわれることなく、作者の個性が高く表現された作品」と意見書に記載された。
意見書を受けた富山県は大浦氏から版画4点を1点5万円(計20万円)で購入する。美術館の学芸員からの依頼で、同じ連作の別の6点を大浦氏は寄贈までした。
これらの作品を含む展示内容を収録した図録を美術館は併せて製作する。あらゆる準備が手順どおりに進められた上で展示会は開会を迎えた。
作品を鑑賞し不快感を覚えた
スタート当初は何事もなく催しが続いた。
しかし、1986年(昭和61年)6月4日、天皇コラージュの作品を展示会で鑑賞し不快感を覚えたとして、当時の県議会議員であった石沢義文氏や藤沢毅氏が、議会の教育警務常任委員会において、作品選考の過程や意図を問いただした。
作品選定については先ほども書いた。多くの美術専門家が「天皇コラージュ」を現代美術として高く評価していた。
しかし、県議会における質疑応答が翌日の地元紙で報道されると、作品に対する純粋な美的関心とは異なる市民の興味が、展示会へと一斉に向かったのだ。
「お蔵入り」となるはずだった
「皇室の尊厳を守る」目的で、天皇コラージュや図録の廃棄を求める団体が、富山県知事や近代美術館、富山県庁の職員らにすかさず抗議を開始した。
「戦後、天皇に対する不敬罪がなくなったのをいいことに、天皇の写真を悪用した作品を展示したことは問題である」
「美術館は法律論で表現の自由を主張しているが、法律論を超えた国民感情が納得しない」
などと電話や面談、抗議文により多数回にわたって抗議が続く。
美術作家・大浦氏との面談の要求、本件作品および図録の破棄、ならびに館長の辞職を併せて求め、県庁周辺および富山市内において街宣活動を展開した。
後の第1審で裁判官が「常軌を逸した不当な活動」と表現したほどの街宣活動だった。
結果として、同年6月11日、近代美術館の館長は「天皇コラージュ」を美術資料として保管するにとどめる館長見解をまとめ、県議会の教育警務常任委員会で同年7月18日に報告した。
館長見解は、あくまで当面の措置で、いずれ公開するつもりだったとの情報もある。
それでも、作品自体の安全や立ち会う側の安全も考慮し、作品の一般公開は中止となった。要するに、美術館のコレクションとしてお蔵入りとなったのだ。
同年8月に刊行された美術批評誌〈裸眼〉7号はこの問題を特集し、お蔵入りに関して「終身刑!?となった芸術作品」と書いている。
同年7月12日の〈北日本新聞〉では、天皇の肖像画と裸婦の作品で迷惑を掛けたと県議会で知事が陳謝した様子が報じられている。
思わぬ展開
しかし、収束するかに見えた騒動は思わぬ方向へ展開する。
近代美術館の館長の決定からおよそ1か月後2、富山県立図書館が本件図録の寄贈を美術館に要請した。
86富山の美術の展覧会の図録(パンフレット)には「天皇コラージュ」を掲載したページが当然含まれている。
要請を受けた美術館側は一般公開しない条件で県立図書館へ図録1冊を送付した。
受け取った県立図書館は当面の間、図録を閲覧・貸し出ししないと決定し、住民による閲覧請求を拒絶し続けた。
ところが、請求を拒絶し続けた図書館に対して今度は、日本図書館協会が見解を発表する。
「利用者の知る自由を保障することを任務とする図書館として、できるだけ速やかに提供制限の措置を撤回または緩和されることを期待する」との見解を採択したのだ。
富山県議会の教育警務常任委員会においても、当時の県議会議員であった石黒一男氏が、図書館所蔵の図録の閲覧禁止解除を要求した。
これらの動きを受けて県立図書館は、1990年(平成2年)3月22日を予定日に図録を公開する方向に転換した。
当時の報道を振り返ると、図録公開の準備期間にあたる1989年(平成元年)7月30日〈毎日新聞〉朝刊に「早く公開したい」と語る県立図書館側の考えが報道されている。
同年8月22日の〈中日新聞〉朝刊には、天皇図録公開に対する抗議を富山県立図書館が突っぱねる様子も報道されている。
そうした準備期間を経て、県立図書館に対する図録の寄贈から4年後に、いよいよ図録は公開された。
図録が破られる
ところが、公開初日の3月22日にトラブルが発生する。
図書館所蔵の図録のうち「天皇コラージュ」が掲載されたページを非公開派の男Bが破り逮捕される事件が発生した。
さらに、非公開派の別の男Cが富山県知事室に侵入し、当時の中沖知事に棒で殴り掛かろうとする暴行未遂事件にも発展した。
富山県教育委員会は事態を重く見て、県立近代美術館美術品管理要綱に基づき「天皇コラージュ」を売却する。
富山県会計規則の手続に基づき1993年(平成5年)4月9日には図録の処分も決定した。
言い換えると「買う」と決めた専門家の判断を世論が覆したわけである。専門家が専門性を放棄して大衆迎合したとの見方もできる。
それでも「天皇コラージュ」と図録の所持が管理運営上の障害となり、社会問題化が避けられないと判断して、売却する方向へ一転してかじを切ったのだ。
適法な手続に従って天皇コラージュはほどなく売却され図録も焼却される。
天皇コラージュと図録を目にする機会を県民は失った。
(編集長のコメント:一見すると穏やかに見える富山県ですが、非公開派の男が知事室へ侵入した事件が起きていたとは驚きです。
どのような展開をこの問題は見せるのでしょうか。事の経緯を引き続き読み進めてください。)
2 1986年(昭和61年)7月9日。
オプエド
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