美術館の「自殺行為」
法律家の序言
〈HOKUROKU〉運営メンバーにして弁護士の伊藤建です。
北陸3県にまつわる有名な裁判を「謎解き」風に取り上げ、論理と人情の交差点で悩んだ法律家の足跡をたどる連載の続編です。
血も涙もない論理の世界=法律と思うかもしれません。
しかし、論理と人情がせめぎ合った末に、人間味の感じられる判決が出た有名な裁判は過去に、少なくありません。
北陸も例外ではなく、日本中の法律家が注目した「事件現場」があります。
全国の法律家にとって有名な「名所」が身近な場所にあると思えば見慣れた風景にも新鮮な見方が生まれるのではないでしょうか。
前回の連載で取り上げた「金沢市庁舎前広場編」では裁判官の判決に対し法律家から多くの異論が出ました。
今回の物語の舞台で起きた富山県立近代美術館事件でも同じです。
キーワードは表現の自由。最後まで読んで考えてみてください。
プロローグ
北陸新幹線の停車駅である富山駅を降り南口を出ると大きなバスターミナルがある。
バスターミナルから南へ延びるメインストリートの1つには美しい並木道があり、その並木道を南へ進むと、国道41号線に合流する交差点がある。国道41号線を地元の人は「41(よんいち)」と呼んでいる。
駅前から南下する並木道と「41」が合流する交差点には、進行方向の右手に富山城の跡地があり、富山にしては高さのある〈ANAクラウンプラザホテル〉の建物もある。県庁所在地の中心部といった雰囲気だ。
駅からここまでの距離と同じくらいの距離をさらに南下すると向かって左手に城南公園が見えてくる。近隣の保育所や幼稚園に通う子どもたちも遊ぶ緑の豊かな公園だ。
富山駅から行く場合、バスに乗って、西中野口の停留所で降りるルートをお勧めする。
その西中野口のバス停から見える富山市科学博物館の方へ歩いてみてほしい。大きな四角い建物が奥に見えてくる。
物語の舞台、富山県立近代美術館(現在は閉館。跡地ではない。建物は現存)である。
元美術館のこの建物は、富山県置県100周年の記念事業として、建築家・前川國男氏の監修の下で1981年(昭和56年)に建てられた。
耐震性を理由に、改修や移転の検討が2013年(平成25年)に始まり〈富山県美術館〉として駅前に移転が決まると2016年(平成28年)12月28日に閉館した。
2021年(令和3年)8月現在「近代美術館」の跡地利用計画は定まっていない。
保存を求める声が地元からはあるものの5億円の耐震補強費用が再活用には必要と試算されている。
閉館から5年が経過した。5歳の子どもは「近代美術館」を知らない。市民の記憶も年々薄れていく。
さらに言えば、この美術館を舞台に「美術館の自殺行為」とも解釈できる結末で片付いた大事件が起きた話など、知らない人がなおさら多いはずだ。
事件は、1986年(昭和61年)の出来事である。1986年(昭和61年)と言えば、旧ソ連のチェルノブイリ原発が事故を起こし、アメリカのロケット・チャレンジャー号が爆発し、ハレー彗星(すいせい)が大接近して、全国区のお笑い芸人が東京にある出版社を襲撃した年である。
著名な美術作家と富山県民らが富山県と争い、最高裁判所での裁判にまで発展した事件の発端となる展示会が同年、富山県立近代美術館でも開催されていた。話は、その展示会から始まる。
(編集長のコメント:この文章の著者である伊藤建も1986年(昭和61年)に生まれたみたいです。
事件と同年に東京で生まれた著者が、大人になり弁護士となって富山に移住しこの文章を書いている、どこか奇縁を感じます。
さて、最高裁判所での裁判にまで発展し、全国の法律家からは「美術館の自殺行為」とまで言われた事件の発端が次回以降に語られます。引き続き読み進めてみてください。)
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