北陸の「スペイン風邪」365日を100年前のニュースに学ぶ

2020.06.11

vol. 04

面谷集落の全滅と大戦の終わり

大正時代の福井駅。※画像はイメージです Licensed under public domain via Wikimedia Commons

パンデミック警戒フェーズ32:6

巡洋艦・矢矧の艦内で一等機関兵が死んで33からおよそ1年がたった1918年(大正7年)11月18日、福井市内ではスペイン風邪のパンデミ―で閉鎖されていた各小学校が休校を解除し始めていた。

 

もちろん、現代の感覚で言えば、下火とは到底言えない状態だった。福井市内では17日に25名、18日には21名、19日には正午までに6名の死亡者が出ている。新型コロナウイルス感染症の場合、ピーク時でもこれほどの死者は出さなかった。

 

しかし、最初に感染が拡大した福井の市街地では、風邪が「下火」になったと考えられていた。

 

福井が特別なわけではない。石川の小松でも学校が再開され、小松中学校の生徒は19日に能美郡御幸村(現・小松市)石川種馬所付近で演習を行っている。当時からすれば社会の再始動は一般的な感覚だったのだ。

 

金沢のまちの全景。※写真はイメージです。写真提供:金沢市立玉川図書館

北陸の山間部ではこの年すでに雪が降っていた。福井でも九頭竜川の上流では紅葉の見ごろが過ぎ、落葉が始まっている。

 

その九頭竜川の上流域に面谷(おもだに)という集落がある。現在の福井県大野市の山奥にあり、鉱山の集落の歴史は意外に古い。

 

江戸時代の1682年(天和2年)に大野藩が城下の大野町民に面谷の経営を任せ、運上金を納めさせている。1791年(寛政3年)には藩の直営に移して、廃藩置県を迎えるまで藩による面谷の経営は続いた。

 

明治の最盛期には銀の生産が全国16位・銅の生産が27位に達した。

 

面谷はかつて豊かな集落だった。旧城下の大野町に電気がない時代でも、面谷川の流れを使って自家発電を行い、面谷は電話・電信を持っていた。驚くべき話として集落には劇場もあった。当時は「穴馬の銀座」と呼ばれている。最盛期の人口は600戸3,000人に達した。

 

ただ、集落は鉱山の経済活動と運命を共にしている。明治の中ごろから大正の初めがピークで、面谷がスペイン風邪で被害を受けるころには景気は斜陽に傾き始めていた。

 

この時期34、面谷の人口は1,000人弱まで減っている。銅が値下がりし、衰退の兆しが避けられない染みのように集落に広がり始めていた。

10月の面谷鉱山の慰安会

全盛期の面谷鉱山。写真提供: 大野市歴史博物館

10月、面谷では鉱山の劇場で慰安会が催されていた。会場では診療所の伊藤院長が「福井市や大野町などで悪性の風邪が流行している」と集落の人たちに注意を促した。北陸3県の市中でスペイン風邪のパンデミーが始まったころである。

 

面谷は山に囲まれている。山あいにある集落の常として秋の日の太陽は恵みが薄かった。朝夕の寒さは厳しく、この年は11月の中ごろでもひざ丈まで雪が降り積もっている。

 

どのようにこの面谷にウイルスが入り込んだのか。

 

この時代まだ車は珍しかった。10里35離れた大野の市中からは、明治期に整備された荷車が通れるくらいの道を新雪を踏みしめながら歩かなければならない。

 

10月の中ごろ伊藤院長が鉱山の劇場で流行の風邪に注意を促した直後、皮肉にもその面谷に最初の熱性患者が現れた。

 

鉱山の集落である面谷は、現代の表現で言えば集落自体が「3密」のような場所である。感染者が出始めると各家庭で家族が枕を並べるようになるまで長い時間は要さなかった。

 

最初の患者が出てから約1カ月36の間に、鉱山で働く360名の労働者・事務員・役員のうち健康な人はわずか3名だけとなる。

 

鉱山の作業者や事務員は家にウイルスを持ち帰る。家庭内で感染が拡大し、老いも若きも次々と病に倒れていった。集落の「全滅」の始まりである。

「鉱山は今や全滅のふちにひんしている」

全盛期の面谷鉱山。写真提供: 大野市歴史博物館

スペイン風邪の特徴は致死率の高さにもある。入院中の鉱山の作業員は2名、3名と冷たくなっていった。しかし家族も病に伏しているため誰もみとる者が居ない。

 

面谷にある郵便局も機能を失った。仮設の事務所を診療所に設けて窓口業務を継続すると、一家の主を失った作業員の妻が青ざめた顔でつえをつきながら郵便貯金を引き出しに現れた。

 

対応する郵便局の局員も病児を背負いながら応対していた。狭い鉱山の集落では誰もが顔見知りである。

 

事情を知る郵便局員は自らも病児を背負いながら、家族を失った者の悲惨さを嘆き泣いた。

 

鉱山で唯一の診療所も機能を停止していた。新型コロナウイルス感染症でも発生した院内感染である。当時の診療所の人員は伊藤院長に薬剤師、看護師と他2名の計5名だった。その医療従事者たちも病に侵され枕を並べ苦しんでいた。患者が診療所を頼って現れても誰も診られない。

 

この面谷の惨状を当時〈大阪朝日新聞〉は北陸版の紙面で「今や全滅のふちにひんしている」と報じている。

 

流行が始まって1カ月で90名近くが死んだ。幸い病気を免れた数名の若者が、死者を始末した。

 

しかし、集落の火葬場で対応できる人数は限られていた。死者が列をなし、そのうち火葬場の建物は連日の火葬の余熱でついに焼失する。仕方なく若者たちは野で遺体を火葬した。

 

亡くなった人たちは、ほとんどが法名も持たず、お経もあげてもらえないまま白骨となっていった。死に際に誰にもみとられない悲しみは、現代人にとっても100年前の人たちにとっても何ら変わりはない。

福井市内の足羽川では祝賀の花火が打ち上がった

福井城にあった松平試農場(1910年(明治43年))※画像はイメージです Licensed under public domain via Wikimedia Commons

この年37の11月11日、ドイツと連合国の休戦協定が締結され、第一次世界大戦が終結した。感染の「ピークを過ぎた」福井市の中心部では祝賀会が計画されていた。

 

市内に国旗が掲げられ、各小学校の子どもたちは午前10時に授業を休みにして行列を組織し、小さな旗を手にしてまちをねり歩いた。一般市民はちょうちん行列を催している。

 

祝賀の余興として足羽川では午前中に10発、午後に60発、夜に20発の花火が打ち上がった。

 

その準備の様子を大きく報じた大坂朝日新聞の北陸版には12月3日、面谷の記事も載っている。

 

報道によれば面谷鉱山の感冒38は猛烈を極め、980名の住民うち9割7分に相当する899名が病に侵され、全山全滅の姿となった。その感冒がようやく終息に近づいたと書かれている。

 

しかし、時の流れは面谷に厳しかった。翌年の1919年(大正8年)以降、世界的な銅の需要の低下と海外製の安い銅に押されて、輸出国から輸入国に日本は転落している。

 

鉱山の経営は年を追うごとに厳しくなり、スペイン風邪が全村を「全滅」の危機にさらしてから4年、面谷は廃坑となった。

 

生き残った全住民は故郷を捨て、福井市・大野町・名古屋・岐阜・東京など各地へ離散した。面谷には今も墓石だけが残されている。

 

副編集長のコメント:最後の第5回「波状攻撃」に次は続きます。)

32 WHO(世界保健機関)の世界的インフルエンザ準備計画における警戒フェーズを参考にしている。フェーズは全5段階に加えてパンデミックピーク後・パンデミック後に分かれる。フェーズ6はパンデミックが市中レベルで起きている状態を指す。

33 1917年(大正6年)12月4日。

34 1918年(大正7年)11月。

35 40kmほど。

36 11月20日まで。

37 1918年(大正7年)

38 呼吸器系の病気の呼び名。

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