100年前のニュースに学ぶ。北陸3県の「スペイン風邪」365日。

2020.06.10

vol. 03

パンデミ―「猛威、全県下を襲はんとす」。

(パンデミック警戒フェーズ30:5~6)

スペイン風邪の大流行のためマスクをする学生(1919年(大正8年))。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

1918年(大正7年)10月14日、石川県石川郡吉野谷村(現在の白山市)に、初霜が結んだ。昨年より1日、平年より11日早い霜だった。

 

北陸での市中感染の「第一報」から数えれば、約4カ月がたっている。この辺りから、いよいよ北陸3県の市中で、感染が爆発し始める。

 

現代で言えば、東京や大阪など太平洋側の大都市を中心に感染を広げていた新型コロナウイルス感染症が、いよいよ北陸の市中でも、日に日に感染者を増していくタイミングと重なる。

 

ようやく地元の新聞でも、毎日2面、3面にニュースが載り始める時期だ。例えば、同年11月12日の富山日報では、「悪性感冒は今が峠 伝染力はペスト以上」と書かれている。

 

それでも、その前日には対ドイツの休戦条約が調印され、第一次世界大戦における西部戦線の殺し合いが終わっている。

 

現代の新型コロナウイルス感染症と比べても、けた違いの患者と死者を出すスペイン風邪だったが、世界の動きは激しく、1面は異なるニュースで埋められていた。

 

第一次世界大戦の対ドイツの休戦条約調停の様子。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

警戒フェーズが最悪の5~6(パンデミック)とも言えるこの時期、北陸3県の都市部では、学校や工場が相次いで閉まっていた。金沢市内の小学校の生徒は当時1万5300人ほどで、そのうちの約8割に相当する1万2800人が、スペイン風邪で欠席していた。現代と比べても、信じがたい数字である。

 

同年10月30日の北國新聞では、「世界感冒愈々猖獗  市内の各小学校各工場に波及す 猛威全県下を襲はんとす」との見出しで、各工場でも多くの患者が出ていると報じられている。

 

金沢市内の様子。※画像はイメージです。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

金沢市内だけではない。小松中学校など石川県西南部でも、スペイン風邪は猛威をふるっていた。富山、福井も状況は変わらなかった。

 

死亡者も増加を続けた。人々の間でパニックが起きていたのだろうか。「(風邪を)台風が持ってきた」などのうわさが飛び交うようになった。

 

同じころ、感染の拡大も病状の変化も激しい風邪に対して、「稲妻風邪」という呼び名も生まれた。

 

「くわばら、くわばら」と唱えれば落雷を避けられる言い伝えから、当時の新聞社までもが、「桑原々々」と書いて門に張っておけば、風邪を避けられるかもしれないと書いた。

 

病魔は、妊産婦にも直撃した。この風邪がまん延している時期に出産を迎えた母親と子どもは、親子もろとも死亡するケースが多発した。

 

ピーク時は大人だけでなく、0~2歳児の感染も拡大した。熱冷ましの氷が不足したため、幼い子どもを看病する親も、自ら高熱に苦しみながら、枕を並べてわが子を見守るしかなかった。

郡部の悲劇が始まる。

敦賀港(1912年(明治45年))※写真はイメージです。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

大阪朝日新聞の10月17日31の北陸版を見ても分かるように、このスペイン風邪は5月ごろ、京阪地方に流行し、その波が9月ごろに至って、いよいよ福井の敦賀など、関西に隣接したエリアに侵入してきたと考えられていた。

 

視野を広げて考えると、日本の太平洋側の大都市から感染爆発が始まり、放射線状に地方都市に感染が拡大している。現代の新型コロナウイルス感染症と同じ広がり方である。遅れて北陸3県内の都市部に広まった感染が、追って周囲の集落を襲う形になった。

 

石川では能美郡や江沼郡でも流行が始まり、山中や片山津などの温泉地は客足が落ち込み大打撃を受けた。

 

同じころ、福井県の郡部でも、北陸最悪の悲劇とも言える集団感染が起きようとしていた。福井県の山奥にある面谷(おもだに)鉱山である。

 

面谷は大野(現在の福井県大野市)の市中からも、当時は車が通れるような道が整備されていない。山あいの集落で、農地が少なく、気候が厳しい土地のため、数百年に渡って鉱山の経済活動で生きてきた。

 

どのようにウイルスがこの地に侵入したのか、今となっては分からない。この時、面谷ではすでに初雪が観測され、数十センチの雪が積もっていた。

 

この周囲と隔絶された面谷に、不幸にもウイルスが入り込む。そこからおよそ1カ月の間に、1つの集落が「全滅」に追い込まれるまでの悲劇が発生した。

 

(編集部コメント:次は第4回、「大戦の終わりと集落の全滅」に続きます。)

30 WHO(世界保健機関)の世界的インフルエンザ準備計画における現在の警戒フェーズを参考にしている。フェーズは全5段階、プラス、パンデミックピーク後、パンデミック後に分かれる。フェーズ5~6は、人間への感染が広範囲に広がっているパンデミック状態で、数字が大きくなるほど、感染拡大を意味する。フェーズ5は、パンデミックが目の前に迫った状態、フェーズ6は市中レベルでのパンデミックが起きている状態を指す。

31 1918年(大正7年)

この記事を書いた人

坂本 正敬

オプエド

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