100年前のニュースに学ぶ。北陸3県の「スペイン風邪」365日。

2020.06.09

vol. 02

市中感染の第一報。

(パンデミック警戒フェーズ16:4)

金沢市内の様子(1919年(大正8年))。※画像はイメージです。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

一等機関兵の谷広数雄が死亡した年17の暮れ、北陸の冷え込みは厳しかった。

 

年末から翌年18にかけては、まれにみる大雪が降り、電話障害が続出して、富山と福井間で結ばれたばかり19の電話も、不通に陥った。

 

この間、第一次世界大戦の戦線では、着実に悪病が広まり続けている。それでも紙面が「スペイン風邪」に注目し始める時期は、一等機関兵の死から半年ほどがたった、1918年(大正7年)の梅雨時を待たなければならなかった。

 

市中感染の第一報とも言える報道は、その年6月17日の大阪朝日新聞の北陸版に載っている。市中での感染の始まりを予感させる「成金風20の流行」が報じられた。

 

記事によれば、同じ年の5月、石川県立工業学校の生徒が東京に修学旅行に行き、その途中に一部の生徒が発病して、帰ってきたという。

 

北陸3県の部隊で構成される第9師団の葬儀の様子(1916年(大正5年))。※写真はイメージです。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

同じころ、富山県の高岡に司令部を置く第35連隊(第9師団の一部)でも、石川での活動中に感染者が出た。

 

感染は静かに、しかし着実に、学校の職員、工場の労働者、軍関係者の家族に広がっていた。間もなく始まるパンデミ―の「助走」が始まっている。

「早晩終息するだろう」

石川県の浅野川の様子。※写真はイメージです。提供:金沢市立玉川図書館

市民の危機感はこの段階で、無理もないが、まだない。石川ではこの年21、6月16日(日)にアユ漁が解禁になっている。人々は当日に川に群れを成して押し寄せていた。

 

東京の警視庁でも同じ時期22、国沢という医務課長が「一番困るのは適当な予防法のない事であるが、流行期は6月中旬ごろまでだから、早晩終息するだろう」と、にわかに市中で感染を広げる流行病について、発言している。

 

この見通しの甘さを、現代人はもちろん責められない。この当時、光学顕微鏡はあったが、電子顕微鏡がない。言い換えれば、インフルエンザ(スペイン風邪)の正体である、ウイルスそのものを、突き止める手段を人類は持っていなかったのだ。

 

それでも、当時の人たちは 、経験的にインフルエンザを理解していた。主に冬になると感染が広がり、急な発熱、だるさ、せきなど呼吸器系の諸症状が出て、時に全身の筋肉痛や関節痛も起こる。

 

現代人の一般的な理解と、大差はない。しかも、多くの場合、大事に至らず何日かたてば元通りに治ってしまう。この時も、時代を象徴する「成金風」と名付けられこそしたが、すぐに収まると考えられていた。

 

現代においても、新型コロナウイルス感染症が騒がれ始めてからしばらくは、真の危機感を持つ人は少なかった。状況は一緒である。

全国3府32県1道を巻き込んだ騒動

魚津で起こった米騒動を報道する『富山日報』1918年(大正7年)7月25日の紙面。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

警戒フェーズ4(人から人への感染が持続する時期)の段階であるこのころ、陸軍の第9師団23では、すでに患者の数が、この年24の8月上旬までに、6,590名に達していた。増加ペースは、2カ月ほどで患者数が10倍に膨れあがる勢いだった。

 

第9師団の一部、福井県の鯖江に司令部を置いた歩兵36連隊だけを見ても、患者の数は1,367名に達している。現代の感覚で言えば、世間の関心が、軍隊における患者数の増加に向けられても、おかしくはない。

 

しかし、地元の新聞社である北國新聞、北陸タイムス(現・北日本新聞)、富山日報(現・北日本新聞)は、スペイン風邪のニュースを扱っても、1面には載せていない。

 

シベリア出兵を伝える日本の画報。Licensed under public domain via Wikimedia Commons

もちろん、この扱いには、理由がある。今でこそ、新型コロナウイルス感染症のニュースは1面記事になるが、この当時、紙面は忙しく世界の動きを報じていた。

 

時はまさに第一次世界大戦の真っただ中である。前年25にはロシアの社会主義革命26が起こり、後に北陸の第9師団も関係するシベリア出兵27の動きもあった。

 

さらに言えば、北陸では、後に日本史の教科書にも載る出来事が起きていた。この年の7月23日に富山県の魚津で始まり、北陸3県を含め全国3府32県1道を巻き込んだ、米騒動28である。

 

このころ、物価の上昇が激しく、中でも米の値段は近年29で5倍近くに上がっている。

 

その上、漁村では不漁が続いた。生活に困った富山県魚津の漁師の妻たちが、北海道へ米を運び出そうとしている商船の伊吹丸の下に集まり、声を上げていた。

 

江戸時代が終わり、明治を経て、大正時代も半ばとなったこのころ、選挙権も持たない労働者たちが、自分の力で社会を変えようと動き始めた時代でもあった。

 

人々の関心は、感染を確実に拡大するスペイン風邪以外の出来事に、忙しく向けられていた。

 

(編集部コメント:次は第3話、パンデミ―「猛威、全県下を襲はんとす」に続きます。)

16 WHO(世界保健機関)の世界的インフルエンザ準備計画における現在の警戒フェーズを参考にしている。フェーズは全5段階、プラス、パンデミックピーク後、パンデミック後に分かれる。フェーズ4は、人間から人間への感染が持続し、市中レベルでの感染爆発をウイルスが引き起こせる段階に至った状態を指す。

17 1917年(大正6年)

18 1918年(大正7年)

19 1913年(大正2年)

20 スペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)の俗称。第一次世界大戦時の大戦景気で急に金持ちになった「成金」が増えたことになぞらえた。

21 1918年(大正7年)

22 1918年(大正7年)の5月

23 北陸3県の部隊で構成される。

24 1918年(大正7年)

25 1917年(大正6年)

26 社会主義を目指す革命、いわゆるロシア革命。

27 1918年(大正7年)~1922年(大正11年)に、ロシアの社会主義革命に対する干渉を目的として、日本を始めとする欧米各国が出兵した。

28 富山県魚津を発端に、全国に広がる。この騒動で、後に時の内閣が倒れる。

29 1915年(大正4年)~1918年(大正7年)の3年間

この記事を書いた人

坂本 正敬

オプエド

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