「受難の移民史」100年よりもっと前に南米ペルーへ渡った北陸人の話

2023.09.20

vol. 02

いよいよ死者が出始めた

写真はイメージ。実際は、中南米のプエルトリコのサトウキビ栽培の様子

 

第1次移民団の募集が全国の新聞広告に掲載されるとまたたく間に、若くて壮健な790人の移民希望者が集まった。

 

その第1次航海移民790人の中に、福井・石川・富山の人は居ない。しかし、新潟の人たちは372人居た。県別の乗船者で見た時、最大派閥である。

 

新潟県北蒲原郡松浦村から参加した乗客の1人、当時31歳の五十嵐熊吉の所持する旅券(パスポート)には、白露国(ペルー)へ出稼ぎ期間4年と記載されている。

 

言い換えると、移民たちの契約期間は4年で、サトウキビ畑での労働が準備されていた。

 

移民募集案内書には「給料は、1カ月につきおよそ25円」と宣伝されている。全国の府県の新聞に掲載された新聞広告には「日収1円20銭、能率次第でもっと稼げる」との触れ込みもあった。

 

参加者は全員、20代から40代前半の独身男子だった。体1つでペルーに乗り込めば、稼いでお金をためて帰れると全員が信じていた。

 

当然ながら誰も、ペルーに骨を埋める気などない。あくまでも4年間の出稼ぎである。大胆不敵にも、ペルーがどこにあるのか考えもしなかった若者も居た。

 

貧しい境遇を脱しようとする移民たちは、移民船の佐倉丸が停泊する横浜港に2月28日に集結した。

移民たちは絶句した

新潟県人を筆頭とする南米初の移民790人が佐倉丸に乗って横浜港からペルーに渡った時の様子を詳しく記す資料は残念ながら発見されていない。

 

しかし、出港前の午後2時から午後5時まで、数十発の花火が打ち上り、楽隊の音楽が演奏されたと当時の新聞に書かれている。

 

明治時代の横浜港

 

イギリス人船長に率いられた佐倉丸は、太平洋を東南に向かい赤道を過ぎ、4月3日にカヤオ港に到着・停泊した。航海の様子は、後に詳しく紹介する第2次航海移民の航海と大差ないと予想される。

 

1888年(明治21年)のカヤオ港の地図。地図右側にLIMA(リマ)があり、その西側にCALLAO(カヤオ)が見える。カヤオ沖合の島はサンローレンソ島

 

カヤオ港とは、同国西岸の沿岸部に位置する首都リマ近郊の大きな港である。

 

佐倉丸に乗って横浜港を出港し、1カ月以上の船旅の末にペルーへ到着した時、移民たちは絶句した。

 

ペルーの太平洋岸には、数千キロメートルの海岸砂漠が広がっている。草木も生えないコスタ(海岸地方)の砂漠地帯の向こう側に遠く、アンデス山脈がかすんで見えた。

 

移民者を募り、現地に送り込んだ移民会社の森岡商会(東京市京橋区)が示した〈ペルー移民募集案内書〉では「白露(ペリユー)」は「パラダイス」のように表現されている。

 

あまりにも想像と異なる山河の風景に「みんなタマがっとるよ」(「みんな、タマげた」の意)と振り返る初期移民の証言もある。

ウジ虫が巣くうあばら家

到着した当日は、カヤオ港で下船せず翌日、カヤオ港から、コスタ(海岸地方)の海岸砂漠沿いを南北に航行し、7つの港に寄港した。

 

移民たちは、主に出身県別で各港に降ろされ配耕される。入国審査も税関審査も難なくクリアした。

 

配給された軍隊払い下げの移民服にドタ靴を履き、柳行李(やなぎごうり、柳で編んだ長方体の入れ物)や大風呂敷を肩にしながら下船した。

 

別れ際、誰もが声を上げ、手や帽子を振り、再会を誓った。長い旅路の果てに、移民団には絆が生まれていた。

 

しかし、初期の移民たちは各耕地に到着するなり、さらなる不安を前途に感じたに違いない。移民には、

“健康二適スル家屋”

“高さ壱尺五寸幅三尺長サ六尺ノ寝台”

“医薬ヲ無代価ニテ”

(〈ペルー移民募集案内書〉より引用)

支給すると、森岡商会との間で契約があった。確かに家屋はあった。しかし、大変なあばら家で、炊事場・シャワー・便所がなく、粗末な寝台が土間に置かれている家屋も多かった。布団もない。

 

移民小屋には窓もなかった。ロウソクをともすと、グサノ(ウジ虫)が巣くっていた。そのあばら家に複数の移民が押し込まれた。

帰国請願書

再掲。写真はイメージ。実際は、中南米のプエルトリコのサトウキビ栽培の様子

 

サトウキビ畑の耕作地に入った若くて壮健な移民たちは農作業そのものにも苦労した。

 

彼らは(第1次の移民団は男性のみ)、農村出身者が多い。いわば、農業のプロだった。しかし、サトウキビ栽培は日本での農作業と内容が全く異なる。

 

雑草取り、溝堀り、根抜き、植え付けなどの力作業を担当したが、サトウキビは不慣れな作物で思うように作業が進まない。第1次の移民団に、サトウキビの耕作に手慣れた沖縄県人は居なかった。

 

サトウキビの葉は刃物状で鋭い。容赦なく手足を切り裂き、移民たちは血だらけになった。葉の生い茂るキビ畑の中は風が通らず蒸し風呂のようだった。

 

写真はイメージ。ジャマイカにおける19世紀のサトウキビ畑

 

前評判と異なる日本人の「能力の低さ」に失望したペルー人の耕地支配人と農地経営者の態度は日に日に悪化していった。

 

スペイン語を話す通訳も居なかった。英語を話すインテリが帯同してはいたが、シェイクスピアは読めても会話は苦手だった。

 

当時、スペイン語を話す人材そのものが日本に欠けていたのだ。日本の在外公館は、ペルーどころか周辺国にもない。

 

コミュニケーションの行き違いが日常的に発生し両者の関係をさらに悪くさせた。

 

一定量の請負仕事(タレア)をこなすと支払われる賃金の低さにも移住者たちは悩まされた。話が違う。仕事がはかどらず、1日に1タレアもこなせない。1タレアの賃金も、30~80センタボ(日本円で30~80銭)にすぎなかった。

 

繰り返すが、移民募集案内書に宣伝された「給料は、1カ月につきおよそ25円」という金額には到底及ばない。全国の府県の新聞に掲載された新聞広告には「日収1円20銭、能率次第でもっと稼げる」との触れ込みもあった。

 

しかも、請負仕事(タレア)の基準量すら、耕地支配人のさじ加減で決まった。日本人たちが仕事に慣れてくると、1タレアの労働基準量が増えていく。

 

もともと、中国人の苦力(クーリー)を奴隷として扱っていた雇用主たちである。早朝5時の出勤時の点呼では、日本の移住者を名前ではなく「ウノ(1号)」「ドス(2号)」「トレス(3号)」と番号で呼んだ。むちを振り回す農場主も中には居た。

 

日本人は現地で、奴隷扱いされた。

 

イラストはイメージ。19世紀、白人の監督者によって奴隷が労働させされている様子

 

日々の生活にも困るようになった日本人たちは、ペルー人の耕地支配人や農場主たちに集団で、賃金の前払いを求めた。

 

移民たちは食費も切り詰めざるを得ない。

 

パンとお茶だけの朝食を済ませ、お昼ご飯が出ないために、砂糖を詰めたパンを6個から10個持参して耕地で食べた。当然、栄養が不十分になり、体の抵抗力が落ちる。

 

生活環境も劣悪だった。移民小屋の近くを流れる川を炊事や飲料に使ったがその水が不衛生だった。

 

入植から1カ月もしないうちに移民たちは高熱と下痢に苦しみ始めた。夜、突然の悪寒と共に体が震え出し、動けなくなる者も居る。

 

第1次航海移民船の中に医師は居ない。日本人移民を保護する目的でメキシコ日本公使館館員がペルーに入り、本国に対して医師を要請した時期は、第1次航海移民船の到着から1年後である。

半年ほどで124人が亡くなった

次々と病に倒れる移民たちの姿を、耕地支配人たちはサボタージュと判断した。移民と耕地支配人のコミュニケーションはすでに感情的なやり取りになっていた。

 

いよいよ移民に死者が出始めた。移民の死亡は、日本人にもペルー人も衝撃を与えた。健康が売りの若者たちがあっけなく死んでいった。「まさか」の世界である。

 

にもかかわらず、葬式や野辺の送りは許されなかった。時間と人手をとられ、農作業が滞るためだ。移民たちは、死んだ仲間を、丘のふもとなどに土葬するしかできなかった。

 

各耕作地でいよいよ、ストライキが始まった。最初は、サンニコラスという内陸部の耕地で、山口県の出身者150人ほどが仕事をボイコットした。驚くべき話だが、第1次航海移民船がペルーに到着してから3週間後の出来事である。

 

当時、ペルー首都リマ近くの港カヤオに、森岡商会の代理人として田中貞吉が居た。富山の学校でも校長を務めた例の男である。

 

田中が、日本人移民と雇用主の間に入って調停を試みたがもはや修復不能だった。各耕地で、同様の動きが立て続けに起こった。

 

森岡商会は、他の耕地をあっせんなどするものの焼け石に水で、出身県別でまとまった日本人移民たちは帰国運動を展開した。

 

最大派閥の新潟県人も例外ではない。悲惨さに耐えかねて新潟県知事に連署〈契約違背ニ付帰国請願書〉を送った。

 

その間も、日本人の移住者の死者は増え続けた。第1次航海移民船がペルーに到着してから半年ほどで124人が死亡した。マラリア・赤痢・腸チフスが主な死因だった。

 

イラストはイメージ。同時代に、パナマ運河地帯で行われた防除作業の様子

 

日本人は続々と耕地を脱出した。そのうちの多くは、首都リマを目指したが中には、アンデス山脈を越え、ボリビアやブラジルへ逃亡した者も居た。

 

しかし、耕地の周囲は多くの場合、海岸砂漠である。首都のリマを目指すにしても、足の甲が20センチも埋まる砂ぼこりの野道を歩かなければならない。

 

食うや食わずで逃亡する者の中には追いはぎに遭い、着物まで奪い取られる者も居た。途中で倒れた者も多かった。

 

耕地から脱出し首都リマに到着できた日本人はカヤオの移民宿に収容された。しかし、その収容先が今度は、地元の民衆によって襲撃された。

 

「マカコ(マカオ)・チノ(中国人)、帰れ」

 

と罵声を口にする350人の群衆によって15人の日本人が負傷した。

 

どうして民衆的な反感を買ったのか。諸説ある。いずれにせよ、第1次航海移民船でペルーに渡った790人は間もなく、半ば壊滅状態に追いやられたのである。

 

「モリオカショウカイエンガニョ」(森岡商会にだまされた)

 

と、死んでいく仲間たちの穴を掘りながら若い移民たちは叫ぶしかなかった。第1次移民の歴史の概略である。

 

プロデューサーのコメント:私たちの考える移民のイメージとは大きく違い、記事に書かれているとおり、この時代のペルー移民はまさに奴隷派遣です。

 

若者が、母国を離れて無念の死を遂げるとは、なんとも切ない。人に罪はありますが、時代にも罪あり。世界中のどこの国も死に物狂いで一生懸命だったと想像します。

 

現代の私たちはどうでしょうか、この記事を読んで思い出す言葉は「足るを知る」でした。今の世の中、何が足りないというのでしょうか? 

 

命を落とした当時の若者よ、私たちの記事によって、きみたちの経験を少しでも読者に伝えます。ありがとう。)

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