「受難の移民史」100年よりもっと前に南米ペルーへ渡った北陸人の話

2023.09.20

vol. 01

森岡商会の甘言

1879年(明治12年)のペルーの首都リマ

 

話の舞台であるペルーという国は、どんな国なのだろうか。そもそも、どこにあるのだろう。

 

外務省の情報を見ると、日本の約3.4倍の国土を持ち、スペイン語を話す約3,297万人の人々が居ると書かれている。スペイン語を人々が話す理由は、今から200年くらい前に、スペインから独立した歴史があるからだ。

 

では、冒頭に挙げたもう1つの疑問に戻る。ペルーとはどこにあるだろうか。南米にある。しかし、南米と言っても各国の位置関係が分からない人の方が多いはずだ。

 

南米大陸を逆三角形の図形と見立てると、その逆三角形の左上にペルーはある。

 

逆三角形の右端にはブラジルがあり、ブラジルのアマゾン川を海岸線から西にさかのぼると、ペルーの国境と上流域でぶつかる。

 

ペルーの位置。イラスト:Addicted04(Wikipediaより)

 

ペルーの国土は、大まかに言って3つのエリアに分けられる。

 

ペルーの国土。地図右側のブラジルとの国境周辺に熱帯雨林が広がり、南北(茶色)に高山地帯が続く。海岸線は、乾燥地帯。

 

ブラジルとの国境周辺に広がるアマゾン川の上流域(セルバ)が1つ。上の地図では緑色の部分で雨量が多い地域だ。

 

ペルーの熱帯雨林

 

その上流域と、太平洋岸を隔てるアンデス山脈の高山地帯(シエラ)がもう1つ。南北に連なるアンデス山脈は国土の62%を占める。上の地図では、濃い茶色の部分になる。

 

アンデス山脈の尾根にあるインカ帝国の遺跡マチュピチュ

 

最後は、アンデス山脈の西側にあり、太平洋との間に挟まれた、南北約3,000キロメートルにわたる砂漠地帯(コスタ)だ。地図上では黄色のエリアになる。この海岸砂漠の河口付近にペルーの発展の中心がある。

 

ペルーの海岸砂漠の様子。写真は、ペルー北部のパラカス国立自然保護区。撮影:masT3rOD(Wikipediaより)

 

日本とペルーの距離は、飛行機の直線距離で15,510キロメートル。現代日本人の平均的な感覚で言うと、とても遠く、なじみの薄い国だ。地球の裏側に近い印象もある。

狭い国土に増え続ける人口のはけ口を国家が求めていた

どうして、これほど離れた土地に日本人が移民しなければいけなかったのか。

 

その背景には、移民を送る側・引き受ける側双方の国家の事情があった。プラスして、移民に応募した人たちの暮らしの状況、その両者をつないだ移民会社の存在も挙げられる。

 

まず、今の時代感覚からすれば信じがたいが、狭い国土に増え続ける人口のはけ口を、日本国家そのものが求めていた。

 

鎖国中はもちろん、明治時代に入ってからも、明治政府は当初、移民政策に乗り気ではなかった。

 

外国から寄せられる移民要請を拒否し続けたため、グアム・ハワイ・カリフォルニアのサトウキビ畑の作業員として明治初年近くに海を渡った日本人移民は、政府の許可を受けないまま渡航した。

 

しかし、1884年(明治16年)には、オーストラリア北東部の木曜島で行われた真珠貝採取の潜水作業員37人の移住を明治政府が初めて許可している。その翌年には、労働力を求めるハワイへの移民も許可した。

 

その背景には、緊縮財政による深刻な国内不況があった。さらに、人口の急増(年間20万人増)を受け、増えすぎる農家の二男以降の働き口を確保する問題が国内に生じていた。そのはけ口として海外移民が選択されたのである。

 

そのころ、地方の農村部は困窮を極めた。小作制度がまだあり、収入のうち約5割の小作料を地主に支払わなければいけない。農家の人たちは食べるだけで精いっぱいだった。

 

肥料代などの支払いができず、自分の田畑を手放し、小作人に転落する者も続出した。全耕地の小作地の比率が年々増している時代である。

 

自分の家で飼っている鶏の卵ですら、病気にでもならなければ子どもも食べさせてもらえない。子どもたちは、幼いころから農作業や家事、自分よりも下の子どもたちの育児の手伝いに追われた。

 

かといって、他に生きる道もない。農村部で、食うや食わずの苦しい生活を送る人たちにとっては、甘言だらけの新天地への移民募集がひどく魅力的に見えた。

“外国で稼いで小金をためて帰ることが唯一の希望であった”(〈在ペルー邦人七十五年の歩み〉より引用)

上述のハワイに対する政府公認の移民には600人の募集に対して約2万8千人の応募者が集まったくらいである。

 

明治時代の初期農民

 

結局、計26回の航海で、約3万人がハワイに渡航した。その中には、北陸からの移民も含まれている。日清戦争(1894年)が起きてからは、政府ではなく民間の移民会社が移民を海外に送り込んだ。

中国人奴隷から日本人移民へとペルーの関心が移っていった

しかし、その全盛期を迎えていたハワイ渡航に暗雲が立ち込める。1897年(明治30年)、増えすぎた日本人に対する米国本土での排日運動を受けて、ハワイへの移民取り扱いが一時的に禁止されたのだ。

 

翌年、アメリカはハワイを準州に編入している。排日の盛んなアメリカの一部にハワイが編入される過程で、日本からの移民の受け入れをハワイも停止する方向性を示したのだ。

 

ここに、新たな移住先としてペルーが浮上する。ペルーに第1次の移民が渡る2年前の話だ。

 

まず、ペルーの側が、サトウキビ畑の耕作地で働く労働力を欲していた。鉱物資源が豊富な国で、農業大国でもありながら、勤勉な労働を得意としないペルー人たちには、奴隷制度を長らく利用してきた。

 

具体的には、奴隷売買で購入した苦力(クーリー)という中国人を輸入し、中国人の前は、黒人の奴隷を底辺労働で酷使していた。しかし、そうした奴隷を輸入できなくなった事情があった。そこで、日本からの労働力をペルーの側が欲するようになった。

 

海外に移送される苦力。中国のアモイ港の様子

 

奴隷から日本人移民へと関心が移っていったペルーの事情には実は、日本も関与している。

 

直接的なきっかけは、中国人奴隷の苦力を移送した「奴隷船」マリアルース号が嵐を避けて横浜に寄港した時の事件だ。ペルーへの日本人移民がスタートする27年前にさかのぼる。

 

その寄港時に、横浜で苦力が逃亡し日本に助けを求めた。日本側は、奴隷売買事件として苦力を保護し釈放する。

 

苦力を保護し釈放した日本側の行動が国際問題になり、ペルーと争う形となった。

 

その後のてんまつは省略するとして、この外交交渉が結果として数年後の通商条約の締結につながり、両国に国交がまず生まれた。

富山県中学校の校長

以後、人的な交流が両国で始まる。後の総理大臣となる高橋是清が、ペルーのカラワクテ銀山経営を計画し、日秘鉱業株式会社(資本金50万円)を立ち上げた話もある。

 

晩年の高橋是清

 

銀山に入る技手・工夫・職工17名に遅れて、高橋自身も2名の同伴者とペルーに渡った。後に、第1次航海移民がペルーに渡るちょうど10年前の出来事である。

 

同じころ、福井城の桜門の前近くに暮らしていた勝村清太郎が、絹織物、および雑貨類の販路拡張のためペルーへ向かうと〈福井新報(第1次福井新聞)〉に広告を出している。

 

福井城の本丸の正門。写真:Katana213(Wikipediaより)

 

そのペルーへ、海軍留学生として渡米経験もある山口県出身の田中貞吉も入国した。

 

アメリカ留学時代の学友で、後にペルー大統領となるアウグスト・ベルナルディーノ・レギアと再会するためである。

 

この田中は、富山にも縁がある。富山県師範学校校長・富山県中学校(現・富山高校)の初代校長を若くして務めた。

 

富山を離れた後、逓信(ていしん)省に入省し、日清戦争の野戦郵便局長になり、戦場での独断行動で免責処分を受けている。

 

以後、野に下り、移民取扱会社である森岡商会(森岡移民合資会社)のハワイ移民に関係した。その立場から、ハワイ移民の行き詰まりと共に、新天地を探していた。

 

この田中の訪問に対し、英国系の精糖業者ブリティッシュシュガー株式会社の支配人を当時務めていたレギアは、多数の日本人移民を、サトウキビ畑で早急に働かせたいと語った。

 

写真はイメージ。ジャマイカにおける19世紀のサトウキビ畑

 

この話を田中は、移民取扱会社である森岡商会の森岡真に帰国後伝え、ペルーの可能性を日本で説いた。

 

森岡は飛び付いた。田中の話を〈秘露国状況書〉としてまとめ、外務省に提出し、新たな市場として日本人の移民を送り込む許可を求めた。

“諸物価ハ安直”

“悪疫マタハ風土病皆無”

(〈秘露国状況書〉より引用)

と報告書には書かれている。田中が、話を盛ったのか。森岡商会が、許可を得るために意図してうそをついたのか。

 

この森岡商会の願い出に対し、外務省が調査を開始する。駐メキシコ公司にしてペルーを兼轄していた室田義文に移民出発の前年、実地調査をさせた。

 

室田義文

 

この実地調査では何を間違ったのか。

“雇主ガ我労働者ヲ優遇スベキ点疑無之”

(室田公司の報告書より引用)

と外務大臣宛てに室田は報告した。要するに、森岡商会の状況書を正しいと認め、移民先として適していると報告したのだ。

 

室田も認めているように、調査に費やした滞在日数が短すぎたのかもしれない。ペルーに移民を送り込みたい森岡真から何らかの接触があったのかもしれない。

 

この田中を発端とする森岡商会の願い出と、森岡商会の願い出を調査した室田の報告が結果として、第1次航海移民の790人を生んだ。

 

もちろん、この先駆者たちの一歩がなければ、ペルー社会で後に大活躍する、日系移民の子孫たちは誕生しなかった。

 

しかし、世界各地に渡った日本人移民の中で最大の苦しみを受けたと言われるペルー移民たちの多くの命が奪われた点は否定できない。

 

プロデューサーのコメント:編集長、今回も頑張りました。現代に生きる私たち日本人は移民文化をほぼ理解できていないと思います。

 

しかし、かつての日本は移民を経験していました。その背景には、人口が多くなってきたとか、国内に働き口が少なくなったとか、移民を送り込む民間会社があったとか、そんな事実があると知れました。

 

しかも、第1回目から登場する人物たちのドラマを感じて「次が読みたい!」という気持ちになってきました。

 

これ、北陸人だけに限らず多くの方に読んでもらいたい内容です。)

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