北陸新幹線の高岡駅は「分離駅設置やむなし」と試案固まる【25年前の今日の出来事】
北陸新幹線の高岡駅を現駅と併設するか、または分離駅を設置するかについての議論で、高岡市新幹線問題懇話会の座長を務める佐藤孝市長は9日までに、分離駅設置はやむを得ないという試案を固めた。
佐藤孝市長は、次回の高岡市新幹線問題懇話会で試案を示す予定で、現駅との併設を主張する高岡商工会議所、市議会議員、市選出の県議会議員などに非公式で事前に伝えたとされる。
Q.新高岡駅はなんで分離駅になったの? その経緯は?
2015年(平成27年)に、金沢まで延伸された北陸新幹線の新高岡駅は、既存の高岡駅から約1.5km南に分離駅として設置されている。
既存の駅と新幹線駅の併設ではなく分離駅の設置を高岡市と高岡市議会が決定した時期は1982年(昭和57年)11月までさかのぼる。
北陸新幹線5線(北陸新幹線を含む)の整備計画を1973年(昭和48年)に政府が決定、ルートを決める段階で、1982年(昭和57年)11月に分離駅を設置すると高岡市側が決めた。
その背景には、既存の駅との併設を求め続けた経済界と、農業団体を支持母体とした堀健治元市長(高岡市長を9期連続36年務める)との確執があり、高岡市側が分離案を押し切ったと当時の新聞で報じられている。
しかし、整備計画決定後も、経済状況や分割民営化した国鉄の経営状況などから着工が遅れ、ルートや整備方式についても計画が二転三転する。
北陸新幹線建設促進富山県民総決起大会など早期着工を求める声が各地で上がる一方、1993年(平成5年)には「整備新幹線見直し検討委員会」が自民党内で発足する。
同年の8月、非自民・非共産による8党の細川連立政権が誕生すると、自民党政権の政策を継承する形で整備新幹線の見直しがスタートする。
それらの動きに合わせ、高岡駅と新幹線駅の併設を求める声が高岡商工会議所などから大きくなる。
1995年(平成7年)4月には大和高岡店で、高岡中心商店街の代表ら約20人が移動経済懇談会を開き、現駅併設を明確に打ち出すような動きもあった。
七尾商工会議所関係者など、能登地区の経済界からも応援の声が上がったが、石川県知事や富山県内の他の沿線自治体の首長からは、工期のさらなる遅れを懸念して、ルート変更を伴う現駅併設案をけん制する声が相次いだ。
その後も、高岡商工会議所などがつくる北陸新幹線現駅併設高岡市民会議などが繰り返し開かれ、当時の佐藤孝志市長に対し決議文を手渡し、分離駅を既定路線とする建設基本計画の変更を求めたが、分離駅案は覆らなかった。
現駅と新幹線駅の併設へ計画を変更するとなれば、隣接する地域(射水市の大門・小杉など)を含む駅周辺の住民の立ち退きが新たに発生し、連続立体交差の新設も必要になるなど、莫大な費用が発生する。
現駅併設の際の費用を高岡市が試算したところ1850億円が必要で、分離駅(新高岡駅)をつくるより550億円高くなるとされた。
基本計画ルートの決定事項を覆そうとしても国は簡単に認めないとの判断もあり、総合的な見地から上述のニュースとなった。
参考富山新聞
北國新聞
北陸新幹線のあゆみ - 北陸新幹線建設促進同盟会
市街地衰退 再生模索 起業支援にぎわい創出へ - 読売新聞
幻の北陸新幹線「加越トンネル」建設中止から20年以上、その名残いまも富山の山奥に - 乗りものニュース
歴代内閣 - 首相官邸
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