北陸の怪談。金沢の「子育て幽霊」編。

2021.08.10

第2回

青ざめた女人の来客。

犀川と旧野田寺町の辺り。

 

昔、清川町・寺町・清川町・十一屋町の辺りを野田寺町と呼んだ。

 

城中から見れば犀川の対岸にあたる。

 

川沿いに発達した河岸段丘の周辺に野田寺町があり、その町内の横町(路地)に面した表長屋(店舗兼住宅)を借りて商いする団子屋があった。

 

屋号は伝わっていない。このころの加賀藩の商人は屋号の付いた法被や印ばんてんを着ない。団子屋の主人も同様だった。

 

城下町の金沢では武士を相手とした商売が経済を支えている。

 

小さな団子屋などは裏長屋に暮らす職人や日雇い人などの町人を相手にするが、店の屋号を強調する考えが城下全体に乏しい。

 

金沢で屋号を盛んに打ち出して宣伝する習慣が生まれた時期は、武士が没落して経済を支え切れなくなった明治以降である。

早朝に店先を葬列が通った。

その夜、団子屋の主人は表店(おもてだな)の大戸を閉め、売上をそろばんで計算し終えたところだった。店舗と土間から見て、板敷きの居間のさらに奥に台所と勝手口がある。その狭い台所で夕食の準備に取り掛かろうとしている。

 

店先の横町を葬列が早朝に通ったからであろうか。その日の売上はまずまずだった。

 

寛文の当時、早朝に店先を葬列が通ると、商売が繁盛するという考えがあった。

 

売上を計算し終えたそろばんも、きちょうめんに表店に置かれている。そろばんを逆さ向きに置くと商売が繁盛しないと言われる迷信も当時はあった。

 

横町に面した借家の表長屋で小さな商いをする町人の分際では、何がきっかけで商売が傾くか分からない。げんをかつぐ習慣が暮らしのそこかしこに自然に染みついていて、団子屋の主人も例外ではなかった。

豊かな者でさえ一汁三菜を過ぎてはならなかった。

団子屋の主人がこの夜に用意した夕食は一汁一菜だった。

 

現代の感覚では驚くかもしれないが、分限に応じた生活を送るようにと、当時は藩から事細かな暮らしのルールが城下に達せられていた。

 

言い換えれば衣類・食事・家のつくりに至るまで、身分に応じて暮らしぶりが決められていたのだ。

 

根底には質素倹約がある。特に町人や農民はぜいたくが許されていない。

 

例えば町人の場合、豊かな者でさえ一汁三菜を過ぎてはならなかった。食卓に並ぶ食材についても、うるさくルールが定められている。

 

妻子を早くに失った団子屋が一人で口にしたその夜の主菜は、近所を流れるオオカワ(犀川)の川石を転がして捕らえたゴリという魚の甘露煮だった。

 

団子屋の主人にとってはゴリの甘露煮ですらぜいたく品である。子どものころ母親がお節料理として出してくれたご馳走でもある。

 

しかしその夜は母の月命日だった。ゴリの甘露煮を食べて母を懐かしむべき理由が団子屋にはあった。

白は忌むべき色で、ある種の緊張感を見る者に与えた。

夕食にとりかかろうとすると、表店の大戸をたたく音が聞こえた。

 

団子屋の主人は台所で耳を澄ました。再び戸をたたく者が居る。隣ではない。

 

すでに日は暮れていた。しかし初夏で日が長い。その晩は曇っていたが、本来なら西の空に明るさがまだ残っている時間だった。

 

店を閉めてまだそれほど時間もたっていない。やはり早朝に店先を葬列が通ったせいもあるのだろうか。誰かが売れ残りを買いに来たのかもしれない。

 

現に白いもちも幾つかある。団子屋は無地の木綿の着物をただし、灯油(ともしあぶら)の明かりを持った。

 

1666年(寛文6年)10月4日にろうそくの製造が金沢町で自由になったが、まだ庶民の手の届く照明になっていない。

 

奥の台所から居間を通って表店に行き、団子屋は大戸のくぐり戸を開けた。

 

前日は月の奇麗な夜だったが、その晩は雲が厚く小雨が降り出していた。

 

 

くぐり戸から、まず白い帷子(かたびら)のすそが見えた。その足元に、本来なら軒先に下げているトウモロコシが落ちて、降り始めたばかりらしい小雨にぬれていた。

 

長谷寺観音院の縁日「四万六千日(しまろくせんにち)」の露店で買った魔除けのトウモロコシである。

 

粒と毛が多いトウモロコシは、子孫繁栄と商売繫栄(もうけ)のご利益があるとして、金沢の商人が好んで下げた門守(かどもり)だった。

 

団子屋の主人がトウモロコシから目線を外して顔を上げると、やせた女が立っていた。

 

見慣れない女だった。店の裏にある裏長屋にもこの顔は居ない。

 

小柄で薄い胴体の割に面長で顔が大きい。耳も大きく、目が離れ、鼻が目立ち、唇は分厚かった。

 

肩は落ちている。薄い乳の下まで髪の毛が垂れていた。しかし前髪に半ば隠された目は動じていない。

 

団子屋の主人は女の風体に一瞬たじろいだ。

 

灯油(ともしあぶら)の明かりの中で女の服の白さが際立っている。明治を迎えるよりも前の時代、白は忌むべき色で、ある種の緊張感を見る者に与えた。

 

葬儀などで親族が黒色の喪服を着始める時期は明治以降である。

 

つまり白は、死に結び付く色だった。

大戸に水の染みがあると気が付いた。

小雨と共に生暖かい風が吹いていた。

 

団子屋が借りる表長屋は平屋で、横町に面して奥に長い。入り口は平入り構造である。

 

同じ横町に近所の表店も軒を接しているが、どの店も静かだった。初夏なのに不思議と虫の声も聞こえない。あるいは女に気を取られて虫の声が耳に入らなかったのか。

 

もちがほしいと女が言った。見た目の青々しさと違い、決然とした意思が声の響きにあった。

 

団子屋は答えに窮した。女は明かりも持っていない。どう見ても普通ではない。

 

もう店じまいだとごまかそうとした団子屋の先手を打つように、女は二文のお金を差し出した。

 

写真:Photo ACより。

 

もちがほしいと再び女は言った。ちょうどもちは売れ残っている。

 

手に持った二文を団子屋に女は押し付けてくる。女の手は初夏なのに冷たい。小雨でぬれてもいた。

 

何を言っても帰る気配のないその迫力に気圧されて、団子屋は店に戻り、残りの白いもちを売った。

 

もちを手にすると女はその場を立ち去った。

 

女が闇の中に消えた後、団子屋の主人は路上に落ちたトウモロコシを軒先に下げ直した。

 

再びくぐり戸をくぐろうとした時、団子屋は大戸に握りこぶしほどの水の染みを見付けた。

 

(副編集長のコメント:加賀藩主前田家墓所へと至る旧野田道沿いに形成された野田寺町。

 

伝統的建造物群保存地区に指定され、直線的な街路に沿って寺社が建ち並んでいます。

 

奇麗に舗装され今は車で通るこの道の付近に団子屋があったそうです。)

旧暦の7月9日に長谷寺観音院で開催される縁日。4万6千日お参りしたと同じ功徳が与えられる。

屋根の棟と平行な壁面に入り口が設けられている建物。

現在の価値で65円。

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